清かの風と小さな笑顔
空がだんだんと透明感を増して、吹く風も爽やかになってきた。季節は初夏。洗面所の窓から見える五月の空は晴れわたっている。清々しい朝だ。
中学生になった杏寿郎は、毎日、幸せいっぱいに学校に通っている。
そろそろ着慣れつつある制服は、まだまだサイズが大きい。けれどもネクタイを締めるのは、だいぶうまくなったと思う。
小学生の時分には、杏寿郎は自分の見た目など、まったく気にしたことがなかった。だが、中学に上がってからというもの、毎朝、鏡の前での身だしなみチェックをかかさない。
入学したばかりのころ、洗面所で何度も髪やネクタイを確かめている杏寿郎を見て、父が大声で「瑠火! 杏寿郎がとうとう洒落めかしだしたぞ! 赤飯を炊け!」などと、とんちきなことを言い出したのはまいったけれども――ちなみにその後、父は朝っぱらから正座させられ、母の説教を受けていた――だらしのない格好などするわけにはいかないのだ。寝癖や服の染みなど、手抜かりがあってはいけない。
なにしろ、杏寿郎が毎日授業を受ける教室には、義勇がいるのだ。しかも、隣の席である。
最初に出席番号順で決まった座席はずいぶんと離れていて、ガッカリしたけれど、視力が悪いクラスメイトと席を替わった結果、なんと隣という幸運を勝ち得た。ちょっと横を向くだけで、義勇の姿が目に入る。なんて素晴らしい席だろうか。おかげで杏寿郎は、毎日幸せを噛み締めている。
「兄上、母上がご飯を食べなさいと言ってます」
「おぉ、もうそんな時間か! すまない、千寿郎!」
洗面所にひょっこり顔を出した千寿郎に声をかけられ、杏寿郎は明るく笑い返した。
通園時間まではまだまだ余裕があるが、千寿郎もすでに制服姿だ。早く友達に逢いたくて、幼稚園に行くのが待ちきれないらしい。
人見知りで引っ込み思案なところがあるので心配していたが、毎日楽しそうでなによりだ。
「千寿郎、おかしなところはないだろうか」
たずねれば、千寿郎はキョロキョロと杏寿郎の体中を見まわして、にっこりと笑った。
「はい。兄上、格好いいです」
「そうか! 千寿郎のお墨付きをもらえたのだから安心だな!」
笑って杏寿郎は、千寿郎と手を繋ぎ台所へ向かった。
今日は幼稚園で歌を歌うのだとか、お遊戯を覚えたら兄上にも教えてあげますだとか。興奮気味に話す千寿郎は、うれしそうに笑っている。千寿郎の言葉に答えてやりながら、杏寿郎は、ふと、記憶のなかにある小さな手を思い出した。
昔、一度だけつないだ義勇の手も、これぐらいだっただろうか。
思い浮かべる顔は幼い。白い可憐な花のような笑顔だ。何度も何度も思い出してきた、義勇の愛らしい笑顔。杏寿郎の胸の奥、まぶたの裏から、一度だって消えやしなかったその笑みが、杏寿郎をも微笑ませる。
だが、脳裏に浮かぶその笑顔は、すぐに毎日見る今の義勇の顔になった。
「兄上?」
不意に真顔になった杏寿郎を、千寿郎が不思議そうに見上げてくる。なんでもないと笑いかけて、杏寿郎は、なんとはなし窓へと視線をやった。
今日もよく晴れている。五月の空は先月までよりも青さを増して眩しい。
この空のように晴れやかな義勇の笑顔を見られるのは、いつになるだろう。思えば少し切なくて、胸がキュッと痛む。けれども鬱々となどしていられない。毎日義勇に逢えるのが、幸せであることに変わりはないのだ。
今日は昨日より多く、義勇の声が聞けるといい。少しでも笑ってくれるよう、今日も頑張らねば。
気持ちを切り替えれば、早く学校に行きたくなる。幼稚園の時間を待ちきれない千寿郎と同じように、義勇に逢える学校に、一秒でも早く行きたくて。今日も杏寿郎の心は、ウキウキと弾むのだ。
心の奥底に、ジリッと焦げつくような焦燥と嘆きを押し込めて。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杏寿郎が教室に入ると、まだ誰もいなかった。いつものことながら、軽いため息がこぼれる。ドアを開けた瞬間の落胆は、もはや恒例と言っていい。
窓際の一番後ろが義勇の席だ。机の上には、今日もすでにカバンが置いてあった。
部活の朝練なら早い登校もわかるのだが、義勇は帰宅部だ。なのにいつでも一番早く登校している。だが、杏寿郎が義勇の顔を見られるのは、もっとずっと遅く、ホームルームが始まるころだ。
義勇はあまり教室にいたくないのか、朝のホームルームが始まるまでの時間や昼休みには、教室を出ていることが多かった。
少しでも長く義勇と一緒にいたい杏寿郎としては、義勇がくる前に教室で待っていたいのだけれども、無念なことに今まで一度も先に着けたためしがない。残念だけれどこればかりはしかたがない。これ以上早く登校するのは、杏寿郎にも少々支障がある。
「今日も部室棟か……」
自分の席につき、また小さく嘆息した杏寿郎は、持ち主不在のカバンを見やった。
義勇はいつでも誰より早く教室に来て、カバンだけを残して消えてしまう。
思い返せば入学した翌日からそうだった。
今日から義勇と肩を並べて学べると、杏寿郎がウキウキと教室に入ったときには、すでに義勇の席にはカバンが置いてあるきりで、義勇の姿は教室にはなかった。
きっとトイレにでも行っているんだろう。杏寿郎はそう思ったし、疑いもしなかった。ところが、いつまで経っても義勇は戻ってこない。最初のうちはクラスメイトに挨拶する声も明るかった杏寿郎だが、時間が経つうちに次第に不安がふくらんできた。
よっぽど険しい顔付きをしていたのだろう。教室の入口を見据えたまま微動だにしない杏寿郎に、入ってきたクラスメイトはみな一様にビクリと身をすくませて、杏寿郎を遠巻きにしていた。当の杏寿郎は、現れない義勇の安否ばかりが気になって、そんなことちっとも気づきやしなかったのだけれども。
義勇がようやく姿を現したのは、これはもうなにかあったに違いないと、教室を飛び出すべく杏寿郎が立ち上がった瞬間だ。朝のホームルームを告げるチャイムと同時だった。間を置かず先生が入ってきて、杏寿郎は、無言のまま席についた義勇に話かけることすらできなかった。
ホームルームが終わるなり、義勇を質問攻めにしてしまったのは、しかたのないことだと思いたい。詮索好きな質ではないが、どうにも抑えが効かなかった。だって、本当に心配したのだ。どうということのない理由だったと聞ければ、なんだそうだったのかと笑ってやれるし、そこから会話も弾むだろう。そう思いもした。
けれども、義勇から納得のいく答えは、一言だって返ってこなかった。具合でも悪かったのかと案じる杏寿郎に、義勇は、違うとそっけなく言っただけだ。
授業が始まってしまえば私語は交わせず、休み時間のたびに杏寿郎は義勇に話しかけたけれども、義勇の反応は悲しいぐらいに芳しくなかった。表情は乏しく、笑顔なんてかけらも浮かばない。返事だってその日は結局、最初の一言だけだ。
次の日も、そのまた次の日も、同じことの繰り返しだ。義勇はホームルーム寸前まで現れず、杏寿郎が話しかけても、返ってくるのはせいぜい一日に一言。挨拶は必ず返してくれるけれど、それだけだ。義勇の声を聞くことはほとんどない。
中学生になった杏寿郎は、毎日、幸せいっぱいに学校に通っている。
そろそろ着慣れつつある制服は、まだまだサイズが大きい。けれどもネクタイを締めるのは、だいぶうまくなったと思う。
小学生の時分には、杏寿郎は自分の見た目など、まったく気にしたことがなかった。だが、中学に上がってからというもの、毎朝、鏡の前での身だしなみチェックをかかさない。
入学したばかりのころ、洗面所で何度も髪やネクタイを確かめている杏寿郎を見て、父が大声で「瑠火! 杏寿郎がとうとう洒落めかしだしたぞ! 赤飯を炊け!」などと、とんちきなことを言い出したのはまいったけれども――ちなみにその後、父は朝っぱらから正座させられ、母の説教を受けていた――だらしのない格好などするわけにはいかないのだ。寝癖や服の染みなど、手抜かりがあってはいけない。
なにしろ、杏寿郎が毎日授業を受ける教室には、義勇がいるのだ。しかも、隣の席である。
最初に出席番号順で決まった座席はずいぶんと離れていて、ガッカリしたけれど、視力が悪いクラスメイトと席を替わった結果、なんと隣という幸運を勝ち得た。ちょっと横を向くだけで、義勇の姿が目に入る。なんて素晴らしい席だろうか。おかげで杏寿郎は、毎日幸せを噛み締めている。
「兄上、母上がご飯を食べなさいと言ってます」
「おぉ、もうそんな時間か! すまない、千寿郎!」
洗面所にひょっこり顔を出した千寿郎に声をかけられ、杏寿郎は明るく笑い返した。
通園時間まではまだまだ余裕があるが、千寿郎もすでに制服姿だ。早く友達に逢いたくて、幼稚園に行くのが待ちきれないらしい。
人見知りで引っ込み思案なところがあるので心配していたが、毎日楽しそうでなによりだ。
「千寿郎、おかしなところはないだろうか」
たずねれば、千寿郎はキョロキョロと杏寿郎の体中を見まわして、にっこりと笑った。
「はい。兄上、格好いいです」
「そうか! 千寿郎のお墨付きをもらえたのだから安心だな!」
笑って杏寿郎は、千寿郎と手を繋ぎ台所へ向かった。
今日は幼稚園で歌を歌うのだとか、お遊戯を覚えたら兄上にも教えてあげますだとか。興奮気味に話す千寿郎は、うれしそうに笑っている。千寿郎の言葉に答えてやりながら、杏寿郎は、ふと、記憶のなかにある小さな手を思い出した。
昔、一度だけつないだ義勇の手も、これぐらいだっただろうか。
思い浮かべる顔は幼い。白い可憐な花のような笑顔だ。何度も何度も思い出してきた、義勇の愛らしい笑顔。杏寿郎の胸の奥、まぶたの裏から、一度だって消えやしなかったその笑みが、杏寿郎をも微笑ませる。
だが、脳裏に浮かぶその笑顔は、すぐに毎日見る今の義勇の顔になった。
「兄上?」
不意に真顔になった杏寿郎を、千寿郎が不思議そうに見上げてくる。なんでもないと笑いかけて、杏寿郎は、なんとはなし窓へと視線をやった。
今日もよく晴れている。五月の空は先月までよりも青さを増して眩しい。
この空のように晴れやかな義勇の笑顔を見られるのは、いつになるだろう。思えば少し切なくて、胸がキュッと痛む。けれども鬱々となどしていられない。毎日義勇に逢えるのが、幸せであることに変わりはないのだ。
今日は昨日より多く、義勇の声が聞けるといい。少しでも笑ってくれるよう、今日も頑張らねば。
気持ちを切り替えれば、早く学校に行きたくなる。幼稚園の時間を待ちきれない千寿郎と同じように、義勇に逢える学校に、一秒でも早く行きたくて。今日も杏寿郎の心は、ウキウキと弾むのだ。
心の奥底に、ジリッと焦げつくような焦燥と嘆きを押し込めて。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杏寿郎が教室に入ると、まだ誰もいなかった。いつものことながら、軽いため息がこぼれる。ドアを開けた瞬間の落胆は、もはや恒例と言っていい。
窓際の一番後ろが義勇の席だ。机の上には、今日もすでにカバンが置いてあった。
部活の朝練なら早い登校もわかるのだが、義勇は帰宅部だ。なのにいつでも一番早く登校している。だが、杏寿郎が義勇の顔を見られるのは、もっとずっと遅く、ホームルームが始まるころだ。
義勇はあまり教室にいたくないのか、朝のホームルームが始まるまでの時間や昼休みには、教室を出ていることが多かった。
少しでも長く義勇と一緒にいたい杏寿郎としては、義勇がくる前に教室で待っていたいのだけれども、無念なことに今まで一度も先に着けたためしがない。残念だけれどこればかりはしかたがない。これ以上早く登校するのは、杏寿郎にも少々支障がある。
「今日も部室棟か……」
自分の席につき、また小さく嘆息した杏寿郎は、持ち主不在のカバンを見やった。
義勇はいつでも誰より早く教室に来て、カバンだけを残して消えてしまう。
思い返せば入学した翌日からそうだった。
今日から義勇と肩を並べて学べると、杏寿郎がウキウキと教室に入ったときには、すでに義勇の席にはカバンが置いてあるきりで、義勇の姿は教室にはなかった。
きっとトイレにでも行っているんだろう。杏寿郎はそう思ったし、疑いもしなかった。ところが、いつまで経っても義勇は戻ってこない。最初のうちはクラスメイトに挨拶する声も明るかった杏寿郎だが、時間が経つうちに次第に不安がふくらんできた。
よっぽど険しい顔付きをしていたのだろう。教室の入口を見据えたまま微動だにしない杏寿郎に、入ってきたクラスメイトはみな一様にビクリと身をすくませて、杏寿郎を遠巻きにしていた。当の杏寿郎は、現れない義勇の安否ばかりが気になって、そんなことちっとも気づきやしなかったのだけれども。
義勇がようやく姿を現したのは、これはもうなにかあったに違いないと、教室を飛び出すべく杏寿郎が立ち上がった瞬間だ。朝のホームルームを告げるチャイムと同時だった。間を置かず先生が入ってきて、杏寿郎は、無言のまま席についた義勇に話かけることすらできなかった。
ホームルームが終わるなり、義勇を質問攻めにしてしまったのは、しかたのないことだと思いたい。詮索好きな質ではないが、どうにも抑えが効かなかった。だって、本当に心配したのだ。どうということのない理由だったと聞ければ、なんだそうだったのかと笑ってやれるし、そこから会話も弾むだろう。そう思いもした。
けれども、義勇から納得のいく答えは、一言だって返ってこなかった。具合でも悪かったのかと案じる杏寿郎に、義勇は、違うとそっけなく言っただけだ。
授業が始まってしまえば私語は交わせず、休み時間のたびに杏寿郎は義勇に話しかけたけれども、義勇の反応は悲しいぐらいに芳しくなかった。表情は乏しく、笑顔なんてかけらも浮かばない。返事だってその日は結局、最初の一言だけだ。
次の日も、そのまた次の日も、同じことの繰り返しだ。義勇はホームルーム寸前まで現れず、杏寿郎が話しかけても、返ってくるのはせいぜい一日に一言。挨拶は必ず返してくれるけれど、それだけだ。義勇の声を聞くことはほとんどない。
作品名:清かの風と小さな笑顔 作家名:オバ/OBA