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五月雨と君の冷たい手 前編

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「義勇から聞いた。一度だけ逢ったことがあるよな」

 話し合いが始まったからか、鱗滝はひそひそと声を潜めて話しかけてきた。杏寿郎を見やる眼差しは、楽しそうにも、杏寿郎を見定めているようにも感じる。
「義勇が迷子になったときですね。義勇は、俺の話を鱗滝先輩にするんですか?」
「敬語じゃなくてもいいぞ、杏寿郎。部活が同じわけでもないし、義勇のことは呼び捨てなのに俺だけ先輩呼びってのも、なんだか落ち着かないからな」
「わかった。では錆兎と呼ばせてもらう」
 杏寿郎も声を抑えて返したが、内心の高揚は抑えがたかった。自分のことを家で義勇が話してくれているというのは、うれしい。心が躍る。だが同時に、鱗滝――もとい、錆兎に、義勇が自分のことを話している姿を想像すると、なんだか胸の奥がモヤモヤとしてしかたがなかった。
 錆兎と義勇の仲の良さは、杏寿郎だってよく知っている。初めて逢ったときだって、錆兎の顔を見た瞬間、義勇は迷いなく杏寿郎の手を放して駆けて行ってしまった。今では同じ家に住んでいるはずだし、登下校だって一緒だ。杏寿郎と義勇の関係とは、ずいぶんと違う。
 杏寿郎は、義勇と出逢ったときにはたった一度きり十数分話しただけだったし、クラスメイトになれた今だって、顔をあわせるのは教室でだけだ。会話は常に杏寿郎が話しかけるばかりで、義勇はほとんどしゃべってくれない。昼休みも、義勇は錆兎と一緒に食べているし、錆兎と比べたら、杏寿郎が義勇と過ごす時間なんてほんのちょっぴりだ。
 あまりの落差にズンッと落ち込みそうになるが、負けるのはごめんだ。自分でもなにと戦っているのかよくわからないが、視線を外したら負けだという気がする。
 じっと見つめてくる錆兎の視線を、杏寿郎も真っ向から受けとめた。見定められているのだとしたら、自分からそらすわけにはいかない。凛と背筋を伸ばし、杏寿郎は、錆兎の反応を静かに待った。

 見つめあったのは一分にも満たなかっただろう。クッと喉の奥で忍び笑う声がして、先に錆兎が視線を外した。

「話は後でな」

 錆兎は教壇に視線を向けたまま、杏寿郎を見ずにささやいた。
 杏寿郎の喉が、知らずコクリと鳴る。
 錆兎が杏寿郎と話をしたいと言うのなら、目的はきっと、義勇のことにほかならない。
 義勇にかかわるな。それとも、義勇をよろしく? 錆兎の目的はどちらだろう。
 宣戦布告か、それとも義勇を守るため──義勇を偏見の目で見る輩がそれなりにいるのは、杏寿郎も知っている──共同戦線でも張るつもりなのか。
 どちらにせよ、味方にできれば心強い相手だろうが、敵に回ればこれ以上ない難敵であるのに違いはない。なにしろ義勇との距離は、杏寿郎よりも錆兎のほうがぐんと近いのだ。ともに過ごした年月ときたら、くらべものにならない。
 緊張に武者震いしつつ、杏寿郎もまっすぐ前を見据えた。

 ちらりと横目で杏寿郎を眺めた錆兎が、目元だけで薄く笑ったのには、気づかなかった。