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五月雨と君の冷たい手 前編

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 だってきっと義勇は、どんな本なら杏寿郎が楽しめるのか、一所懸命考えてくれたに違いないのだ。自分が好きなだけではなく、杏寿郎が楽しめるものを。生真面目に、誠実に悩んでくれたはずである。そうしてえらんでくれた一冊だ。けっして疎かになどするものか。
 真剣に言った杏寿郎に、義勇はひとつ小さくまばたきして、こくりとうなずいた。微笑んでこそくれなかったものの、青い瞳はどこかうれしそうだった。

 それは四月の出来事だ。今はもう六月も末に近い。だというのに、いまだこの本を杏寿郎が借りたままなのは、義勇が返さなくていいと言ったからだ。

 すぐにでも義勇と話がしたくて、借りた本は一晩で読み終えた。
 朝のホームルームが終わってすぐに、ありがとう、面白かったと笑って杏寿郎が差し出した本を、義勇は受け取ることなく首を振った。
「杏寿郎が持っていてくれ」
「なぜだ? この本はかなり大切にされているようだが、いいのか?」
「俺は……もう何度も読んだから」
 義勇からのプレゼントだと思えばうれしいが、そう言った義勇の態度には、なんとはなし痛みをこらえているようなぎこちなさがあった。本音ではない。なにかを隠している。そんな気がした。
 だから杏寿郎は、ならば義勇がまた読みたくなるまで俺が預かることにしようと笑ったのだ。
 それから毎日、杏寿郎はこの本を持ち歩いている。義勇の大切な本だから、汚すわけにはいかない。濡らすなどもってのほかだ。だから雨の日には必ずビニール袋に入れている。
 今日も差し障りのない言葉ばかりになってしまったから、この本を返す機会もなかった。思い返せば、一言きりの返答ではない会話も、あれきりだ。出逢った日のように屈託なく話ができる日など、いつになるやら。現状、杏寿郎には見当もつかない。

 もう一度ため息をついて、杏寿郎は丁寧に本をカバンに戻した。

 義勇が貸してくれた『パール街の少年たち』は、モルナールというハンガリーの作家による児童文学である。モルナール自身の子供時代の体験が元になっていると解説にはあった。杏寿郎の読書傾向からすれば、生涯読むこともなかったかもしれない話だ。
 遊び場となる広場をめぐって対立した二組の少年たちの、争いのなかでの友情や正義が生き生きと描かれた物語は、義勇が薦めてくれたからというばかりでもなく、面白かった。小説も悪くないなと素直に思いもした。
 少年たちの幼くとも真剣な戦いは、大人の目には戦争ごっこでしかないと馬鹿馬鹿しく感じられるかもしれない。女子が好む本でもなさそうだ。けれども登場人物たちの年が近いこともあり、杏寿郎はワクワクと一気に読んでしまった。
 争いごとは嫌いだが、戦う意義ならば杏寿郎にも共感できる。結末の意外さには驚きもしたが、胸に迫るものがあったのは確かだ。
 なぜこの本を義勇が選んだのかはわからない。物静かな義勇も、この物語に心高ぶらせたのだろうかと思うと、少しだけ意外な気もする。いずれにしても、義勇が読んだ本を自分も楽しめたのは、嘘偽りなくうれしかった。
 休み時間のたびに興奮した声で感想を告げる杏寿郎の言葉を、義勇は無言で聞いてくれた。応えはなかったが、それだけでも格段の進歩に感じたものだ。
 あの日の義勇の眼差しは、常よりもやわらかく温かかったように思う。

 いつか、義勇自身の感想も聞かせてくれるといいのだが。

 そのときには、借りている本も返せるだろうか。預かっておくのはかまわないし、信用されているのだと思えばうれしくもある。とはいえ、大事にしていた本ならば、いずれは義勇に返すべきだ。それまでに、できれば同じ本をどうにか手に入れたいと思っているのだけれど、古すぎるせいかなかなか見つけられない。

 違う出版社から出ているものならば見つかったが、どうしようか。おそろいが欲しいなんて、そんなことを言ったら義勇はあきれるだろうか。

 近づくテストよりも、よっぽどそちらのほうが杏寿郎には気がかりだ。
 だが、どんなに頭のなかは義勇で占められていたとしても、責務はきちんと果たさなければならない。成績にはうるさくなかろうと、父や母に学費を出してもらっているからには、学業をおろそかにするわけにはいかないのだ。委員長に選んでくれたクラスメイトたちに対してだって、おざなりな仕事をするなど申しわけない。責任もって務めを果たすべきだろう。
 ふぅっとまたひとつ軽く息を吐きだすと、文庫本をしまったカバンを手に、杏寿郎は立ち上がった。
 雨はまだやみそうにない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 委員会が行われる教室に杏寿郎が入ったときには、すでにほとんどのクラスの委員長が着席していた。ぼんやりしているうちにかなり時間が経ってしまっていたようだ。
 体育委員長は、学年を問わず運動部に在籍している者が多い。剣道部の先輩もふたりほどいる。杏寿郎の顔を見て、先輩たちが小さく手を振ってくれた。先輩たちの近くの席はすでに埋まっている。いつもなら剣道部員で固まって座るのだけれど、自分が遅れたのだからしかたない。先輩に会釈を返し、杏寿郎も空いた席に着いた。
 部員数が多いわりに、委員長のなかには水泳部はひとりしかいない。委員会に出席する時間も惜しいと考える者が多いのだろう。唯一の水泳部員は二年生の先輩だが、今日はまだ来ていないようだ。
 水泳部員ならきっと部室での義勇のことを知っているだろう。聞いてみたいと思いつつも、義勇のいない場所で探るような真似をするのはいかがなものかとの逡巡もあり、いまだに親しく話したことはない。

「全員集まったか?」

 指導教師が声をかけてきたのと同じくして、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。間を置かずガラリと開いたドアから「すみません、遅れました!」との声とともに飛び込んできたのは、宍色の髪をした男子生徒だ。
「なんだ、鱗滝。おまえ委員長じゃないだろうが。それと廊下は走るな、水泳部エース。顧問の先生にチクるぞ」
「うちの委員長、今日は風邪で欠席なんで代理です。途中までは早歩きだったんですけど、時間になりそうだったもので。走ったのはちょっとだけだから、見逃してくださいよ」
 教師のあきれ声にも悪びれず、笑って答える生徒の名に、杏寿郎の胸がドキリと大きな音を立てた。

 その名前は知っている。顔も、うっすらと見覚えがあった。
 義勇の顔ほどしっかり覚えていたわけではないが、一度だけ逢ったことがある。あの宍色の髪はちゃんと記憶に残っていた。間違いない。義勇の従弟だ。
 錆兎。あの日、たしか義勇はそう呼んでいた。

 カラリと笑う快活な笑顔は好ましい。だが、義勇はあの先輩と常に一緒にいるのだと思うと、なんだか胸の奥がザワザワとして、知らず杏寿郎は鱗滝から視線を外せなくなった。
 空いた席を探してか、鱗滝がキョロキョロと教室を見まわした。じっと見すえていたせいか、すぐに視線が合った。
 杏寿郎の眼差しに、鱗滝はわずかに怪訝そうな顔をしたが、すぐに眉を開きパチリとまばたきした。二ッと笑った意味を悟ったのは、迷う素振りなく彼が杏寿郎の隣に座ってからだ。

「なぁ、おまえ煉獄杏寿郎だろ?」
「なぜ、俺の名を?」