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江戸忍始末記

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 ――眩しい光が瞼の向うに広がり、八左ヱ門はその温かさに起き上がった。

 寝相の悪さから枕はどこかへ飛んで行っていたし、布団も腹の上にしか引っかかっていない。

「くぁああ~っ!」

 大あくびをしながら頭をかき、伸びをする。
 外ではとっくに人が動き回っているようだ。一人暮らしのこの家にも、充分に陽光が入り込んでいた。

(寝すぎたか…)

 寝着を整え、下駄を履いて土間に下りる。首に手拭いをひっかけるのを忘れずに、八左ヱ門は家を出た。






「おや八左ヱ門さん、居たのかい」

 井戸に向かう途中、たすきをかけた向かいの家のおかみさんが八左ヱ門に声をかけた。

「てっきり今日も居ないのかと思ってたよ」
「ああ、たまにはね。夜遅くに帰ってきたのさ」

 呆れたような顔の女に、八左ヱ門はからりと笑って答える。

「まったく、毎日毎日帰りが遅いみたいだけど、どこをほっつき歩いてるんだい」
「いや~、ほっつき歩くなんて。しっかり仕事してきてるんだぜ」
「そんな事言って…ちゃんとした仕事なんだろうね?」
「おうさ。ちゃーんと腕も指もあるだろう?」

 八左ヱ門はひらひらと指を見せ付けるように手の平を降った。

「もう、やだねぇ。そんな事言ってるわけじゃないよ…」

 女は少しだけ顔を赤くして、もごもごと誤魔化した。
 めったに家に居ない八左ヱ門だって、近所からどう見られてるかなんてちゃんと知っている。

「そこら辺のゴロツキには指がないって言うもんなぁ」
「いやだよ、揚げ足とって」

 ちゃんとついている十本の指を太陽にかざしながら、さらに顔を赤らめる女をからかった。

「そろそろ井戸もあいた頃だから、顔を洗うならさっさとしちまいな。もうそろそろ昼だからね。また混みだすよ」
「おう、あんがとさん」

 八左ヱ門はその足で井戸へ向かう。
 今日は天気がいいせいか、桶を持って歩く女が多かった。






 水をたっぷり引き上げ、顔を洗う。まだ冷たい温度が、目を覚ますのには丁度よかった。


 ――八左ヱ門が、この町に住むようになってからもう二年を経ていた。


 ここ、大川藩に来た時こそ体力は削げ落ちていたが、今ではすっかり回復して元のはつらつとした元気の良さを取り戻している。

 この木戸町は、突然やってきた八左ヱ門をそれなりに受け入れてくれた。


「ふ~っ」


 井戸水のきんとした冷たさは、若干まだぼんやりしていた八左ヱ門の頭をはっきりとさせた。
 首にかけた手拭いで顔を拭き、つと目を空にやれば、だんだんと高くなりつつある雲が遠くに見えた。
 その青く晴れた空を一羽の鳥が飛んでいる。
 そこから幾分下に見える山は、緑々として映え渡り、空の青と眩しさを分かつようにして彩りを競っていた。

「ん?」

 道の向うから大きな桶を抱えて歩いてくる者を見つけた。
 それは、八左ヱ門の向かいの家の娘だった。
 よほど重いものを持っているのか、よたよたとしている。
 …今にも転びそうで、恐らく八左ヱ門には気がついていないだろう。
 八左ヱ門は手を貸すわけでもなく、その様子をしばらく見ていた。


「…あ」


 ようやく八左ヱ門に気がついた娘が、小さく声をあげた。
 まつげの長い目が、一度こちらを見て、地に伏せられる。

「よぉ、兵助。家の手伝いか」
「……ええ」

 娘の、桶を持った手に、ぎゅっと力が込められた。



 娘の名前は兵助といった。年は恐らく八左ヱ門と同じ頃で、向かいの家の一人娘だった。
 といっても兵助は、先程会ったおかみさんの本当の娘ではなく、養い子であった。
 本来なら養い子は、幼児の時に望まれた家へと貰われていくものだが、兵助は親が病気で亡くし、嫁ぐにはまだ早かったので、親戚を頼ってつい一年前この町へと来たばかりだった。

 兵助はまだ町に慣れていなかった。噂によると今の家族と反りが合っていないらしい。
 養子縁組には子が親に懐かず破綻してしまう例が多いらしいが、兵助の場合も普通の縁組より歳を経ている分、それが傍から見ていてもよくわかった。
 噂によると兵助が実の両親の死を未だ引きずっているせいだということらしいが、目の前の家に住んでいる八左ヱ門としては、おかみさんが兵助を嫌っているせいだと踏んでいた。
 八左ヱ門は昨年の冬、雪も降ろうかとしている時分に奥さんが兵助を家から閉め出しているのを見ている。



 八左ヱ門の知る兵助は、いつも目を地に伏せていた。
 女の井戸端会議の輪にもあまり入らず、せっせと仕事をこなす。
 そんな兵助を町の女共は遠まわしに見たし、男達は稼ぎに出ているので、兵助はいつも一人だった。






【未完成・執筆中断】
作品名:江戸忍始末記 作家名:祐樹