江戸忍始末記
「……い、…きろ。おい!」
低い声が手を伸ばしてきたのを感じ、八左ヱ門の意識は一気に覚醒した。
「お、おお。起きたか」
八左ヱ門が顔を上げると、男が一人、屈みこむようにしてこちらを見ていた。
「お前、酔っ払いか? ここはお前の家じゃないぞ」
腰を上げながらたしなめる口調で男は言う。
空は未だ暗い。
誰かが道を通る前にここを出ようと思っていたのに、ずいぶん早起きな男だと思った。
「その格好、長旅をしてきた後に調子に乗って深酒でもしたな? ここは人様の店前だ、とっとと行っちまいな」
「…ああ、すまない」
八左ヱ門は立ち上がり、その場を去ろうした。が、立ち上がった途端、激しいめまいが襲った。
「おいおい、大丈夫か。よく見りゃあひどい顔色じゃねぇか。お前さんどこの旅籠に泊まってる?」
「金が…。財布、落としちまって…」
「そいつはいけねェな。…来い」
今にも横転しそうな八左ヱ門を抱えるようにして男はどこかへ向かう。
熱が出ているのか、八左ヱ門の体は熱かった。昨日の雨と疲れで弱ったに違いなかった。
男に支えられて向かった先には組屋敷が並んでいた。
八左ヱ門は驚きに少し声を上げそうになったが、うめき声しか出ない。
「俺の家だ」
そう言われて見上げたところはそこらの長屋とはちがう立派な屋敷で、相手がそんな身分の人なのだと戸惑った。が、そうこうしている内に今度こそ視界が暗くなってきた。
「おい……うわ、しっかりしろ!」
そのまま、男の家の框に倒れこむように八左ヱ門は意識を失った。