甘求者
「ちょっとまだ痺れてるな…」
「…十分、強烈だけどねェ」
ずっと頭上に固定されていたことで痺れの残る右手をぷらぷら振る自分の隣で、腹を抱え苦悶に震える長身の男。
そいつをばっさり無視して仕切り直しとばかりに酒を煽ったとき、左近は違和感に気づいた。
「…そういや、いくら個室でも膳の上げ下げが一切ないな」
かれこれ一刻は過ぎているというのに、店の者が一度も障子を開けないどころか声すらかけてこない。
やはりバレてしまったのかと頭を抱えたくなっていると、腹への一撃から復活したらしい宗矩が同じく酒を煽ってとんでもないことを口にした。
「ああ、ここ拙者の行き着けでねェ。男と個室とったらそういうことってなし付けてあるから問題ないよォ」
「…そうなんですか?」
「そうなんです。島殿に出した酒にもちょっとしたお薬が入ってたりして」
一時の沈黙を経て、二発目の拳が炸裂した。
「…つまり最初からそのつもりだったと。最低ですね、あんた」
こちらに背を向けて正座をしたままうずくまり、動かなくなる宗矩に冷ややかな視線を投げる。
どうりで初めてなのに快感を拾えたわけだ。しかも残っていた薬入りの酒を俺はまた飲んでしまったわけか。
天下に聞こえる柳生宗矩がこんなひどい遊び人だったとは些か衝撃だ。
嫌みを込めてそう言ってやったのだが。
「島殿のことは本気だから妬かないでほしいなァ」
「……まだ足りないですか」
「あ、結構。もうお腹いっぱいです」
めげない大剣豪である。
しかし宗矩ほどの男なら、正面からの拳くらい容易く避けられるはず。
それをあえて受けてくれるのだから本当に好き者というか変態というか。
左近は小さく笑い、杯を机に置いて腰を上げた。
「じゃ、俺はそろそろお暇しますかね」
「あーそォ。……って、口説くのすっかり忘れてたなァ」
言われてみて、そういえばそんな会話を交わしていたような、と思い出す。
まあまた今度でいいかと首の後ろをぽりぽり掻く宗矩に、左近はにこやかに告げた。
「ちなみに今、減点に減点重なって大赤字ですから」
「ええ!? 今日のダメ!?」
いやいや。
真っ昼間から行き着けの盛り場で、常に手の自由を奪った状態で薬盛ってイかせた挙げ句、刃物出してまでケツを掘って中出ししたらダメに決まっているだろう。痕までつけやがって。
もっともだと思うが、しょげ返る宗矩がなんだか耳を伏せて落ち込む大型犬のようで可愛らしく見えてきて。
「口説くの、得意って言ってたでしょ。頑張って俺を落としてくださいよ」
いつかと同じことを言ってやると、敵わないねェと苦笑が返ってきた。
「じゃあ、拙者も色気を磨かないと」
気怠げに、しかしどこか楽しそうに言って宗矩も立ち上がる。
「銭湯でも行くつもりだけど……お宅もどう?」
唐突に訊ねられて、左近は思わず固まった。
完全にここで別れるつもりだったし、流れから考えてもそれが自然だと思っていたが。
本当に、腹の底の読めない男だ。
…案外なにも考えていないのかもしれないが。
「…いいですね。ご一緒しますよ」
「そのあとは甘味かなァ」
「俺飯まだなんですけど」
「ならちょうどいいじゃない」
「甘味は飯にはならんでしょう」
すべてが適当で、緩みきっていて、人の話も聞かなくて。
そんな男に口説かれるなんて有り得ないだろうけど、何故か少し流されてみたくなる。
とはいえ、自分も大概適当だから。
「気が向いたら、俺も柳生さんを口説いてみますかね」
「……秒殺されそうだねェ」
「そりゃ楽しみだ」
「…島殿もお人が悪い」
ろくに飲んでもいないままお代を置いて店を出て、まだまだ明るい昼下がりの雑踏を並んで歩く。
改めて口説いたりしなくたって、こうして一緒にいたら落とせるかもしれませんよ?
胸中で呟いてこっそり長身の横顔を盗み見て、左近は一人くすりと笑った。
fin.