掴めない距離感
ひとりの男の荒々しい息遣いが、空気に溶け込んでいく。
東の空が白んでくる様を横目で見遣り、猗窩座は軽く後方に跳んで正面の人物から距離をとった。
「流石だ、杏寿郎」
肋骨を砕かれ、左目を潰されても尚、闘気は薄れていない。
相対した男の名を口にするだけで、猗窩座の口角は自然とあがった。
「俺との勝負に、夜明けまで生きていた柱はいなかった。やはりお前は強者だ。俺の目に狂いはなかったな」
何度斬り落とされたかもわからない腕を組み、これ以上の戦闘を破棄した意思表示をすると、煉獄は警戒するように残った右目を細めて乱れた呼吸を整える。
「素晴らしい体捌きだった。俺の拳をじかに受けたのは、その腹と左目だけだろう?」
あとはすべてかわされていた。
剣技だけではない。
己の身体の使い方を正しく心得ていなければ、この俺の攻撃をいなすことは勿論、そのまま反撃に転じるなど不可能だ。
その上しっかり腕や胴を斬りつけてくるのだから堪らない。
「杏寿郎、もっと強くなろう。俺とともに。そしてお前が到達し得る高みに辿り着いたとき、鬼になれ」
「…鬼にはならないと言っているだろう」
「弱者と群れる必要はないだろう。強者は強者と高めあってこそだ」
「きみもしつこいな。価値基準が違うと言ったはずだ。弱き者を守るために俺は鍛錬を重ねている。鬼とは相容れない」
煉獄の怒気を孕んだ声に、猗窩座は少しばかり思案する。
もう間もなく太陽が昇る。
ちらりと退路を確認するとともに、名案が浮かんだ。
「ならばこうしよう。弱者を助けるために俺と鍛錬をするのだ」
「断る。鬼とする鍛錬など存在しない」
「…頑固者め。まあいい。次に会うときまでにその傷は治しておけ。またな、杏寿郎」
一方的に言い残し、猗窩座は太陽の光が届かない林の中に消えていった。
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上弦の参の気配が完全に遠退いたことを確認していると、離れたところから焦ったような声が飛んできた。
「れ、煉獄さん!怪我はっ…」
振り向くと、竈門少年が地面に手を突いたまま心配そうな眼差しを向けている。
その隣にいた猪頭少年も弾かれたようにこちらに駆け寄ってきた。
「うむ。左目は使い物にならないだろうが、慣れれば問題ない」
安心させるように笑顔を向けてやりながら、動けずにいる竈門少年のほうへと歩みを進める。
片目になったことで遠近感が少々狂ってはいるが、歩行程度には支障がないようだった。
「すみませんでした…。俺、何もできなくて…」
悔しげに唇を噛み、目に涙を浮かべる竈門少年と、無言で想いを噛み締める猪頭少年の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「きみたちが気に病むことなどない。下弦の壱と上弦の参を相手にしながら皆無事だったのだ。喜ばしいことではないか」
言いつつ鎹鴉を飛ばし、気をとりなおすように少年たちに向きなおった。
「さて。竈門少年はそのまま休んでいろ。猪頭少年、動けるようなら俺と乗客の誘導だ」
隠もじきに来るだろう。
三本ほど持っていかれた肋骨に気を遣いながら、すっかり昇った朝日を見上げた。