掴めない距離感
「ッ…!」
日輪刀を振り抜き、腕を切断したつもりだったが距離感を見誤り、飛んだのは相手の二本の指先だけだった。
返す刀でも頸には届かないーー咄嗟に判断し、下段から袈裟に斬り上げようとしたとき。
死角から伸びてきた腕への反応が遅れ、かわすことが出来ずに胸倉を掴まれた。
構わず煉獄が頸に向かって日輪刀を走らせたのと、猗窩座の切羽詰まった声があがったのはほぼ同時。
「杏寿郎っ!なんだ今の顔は!!」
「ーー……!」
至近距離で相手の表情を認めて、さすがの煉獄も動きがとまった。
戸惑いに満ち潜められた眉と、真っ赤に茹で上がった顔。
「きみこそ……なんて顔をしているんだ」
「俺はどうでもいい!もう一度笑え…!先程の顔を見せろ!」
必死な形相で迫られるが、首を絞めんばかりの勢いで胸倉を掴まれたこの状態で笑えるわけがなかった。
状況と要求がちぐはぐで、相手がどれほど混乱しているのかよくわかる。
こちらの服を掴んでいる猗窩座の右手首を冷静に掴み返し、思いきり捻るとその手は離れていったがその様子に変わりはない。
「今の顔……ほかの弱者どもにも見せているのだろう。もう二度と見せてはならない。絶対だ、わかったな」
「どんな顔だかわからんが、約束はできない」
一段低くなった声にきっぱり応じると、悔しげに相手は歯噛みする。
「ならばもう一度笑え!」
「無茶を言うな」
これが嫉妬であろうことは感じとれるが…
戦いの最中ですら落ち着いた姿勢を崩さなかった猗窩座だが、何故ここまで感情を昂らせているのかを当の本人が恐らくわかっていない。
持て余した思いの鎮め方も判然としないまま、それが苛立ちに変わるのも時間の問題だろう。
…厄介だな。
煉獄は溜め息をつき、近すぎる相手からそっと距離をとり切り出す。
「今笑ってみせることは難しいが、今後のきみの出方次第ではいずれそんな表情を見せることもあるだろう」
「…そうか。……俺の話で杏寿郎は笑ったな」
話の内容でというより、きみの様子でつい笑ってしまったのだが…
そんなこちらの胸中など知る由もなく、猗窩座は言葉を素直に受け止めて真剣に考えている様子。
まさか真面目に取り合ってくれるとは思っていなかっただけに、その姿勢には好感が持てた。
「何かおかしなことを言った覚えはないが、考えておくとしよう」
「笑えない内容であれば容赦なく斬る」
「面白い。杏寿郎はそうでなくてはな」
釘を刺すように言うと、嬉しそうに猗窩座はにやりと笑った。
現在の己の力量では上弦の参には敵わない。
偶然他の隊士が居合わせていれば状況も変わるだろうが、そう都合よくことは起こらないものだ。
この視界を補うには、視覚に頼らずに周囲の動きを察知する力をもっと身につけなくてはならないが、鬼が生きているということは人の命が消えることと同義だ。
一朝一夕にはいかないだけに、彼の興味をこちらに惹きつけて時間を稼ぐ必要がある。
猗窩座も平素の落ち着きを取り戻したようで、隙はないが余裕のある足取りで煉獄の横を通りすぎた。
「杏寿郎も人の子だ。質のいい睡眠をとらねば身体に障るだろう。今日はもう休め」
「…うむ。そうさせてもらおう」
…たまにまともなことを言われると調子が狂うな。
顔に出さないよう胸中で呟き、十分な距離を確保したところで納刀する。
一見友好的とも思える彼の態度だが、情緒が不安定になると本人も感情の対処ができないのだろう。
そうなると発作的に攻撃行動をとる可能性も低くはない。
やはり危険な鬼だ。
上弦の鬼は柱三人分の実力とも言われている。それも参の数字を与えられているのだ。
柱ですら複数人で対峙しても命取り。一般隊士の犠牲も考慮すれば、迅速に討伐しなくてはならないことは重々承知しているのだが…
「ではな、杏寿郎。また会おう」
背後で上機嫌な声がしたかと思うと、鬼の気配は消失した。
どっと疲労感が押し寄せるが、大きく息を吐いて帰路につく。
欠けた視界は元には戻らない。
しっかり備えなければ、皆を守ることは難しい。
煉獄は両の手のひらを見つめ、力強く握り込んだ。
すべては、責務を果たすためにーー
fin.