掴めない距離感
唐突に無体を敷かれたというのに、起き上がった猗窩座は嬉しそうだ。
前触れなく足が出てしまったことに対し、反射的に謝罪が出てしまいそうになるが相手は鬼だ。ぐっと言葉を呑み込んだ。
「き、きみがおかしなことをするからだろう!」
「美味そうな匂いをさせている杏寿郎が悪い。少し舐めるくらいいいだろう」
拗ねたように唇を尖らせる様が可愛らしく見えてしまったことに関しては、残念だが右目の機能障害を疑うしかあるまい。
服についた砂埃を適当に払って、猗窩座は立ち上がる。
「ならばこうしよう」
「…きみの提案はろくなものじゃない。却下だ」
「まあそう言うな。次に会ったときにはその目にも慣れて、杏寿郎と鍛錬ができるようになる。そのとき俺が勝ったら舐めさせろ」
「そら見ろ。ろくなものじゃない」
鬼になれの次は舐めさせろときた。
半ばげんなりしつつも、煉獄はきっぱりと言い放った。
「きみと鍛錬などしないと言ったはずだ」
「弱者を守るためなのだろう?強くなるには鍛錬するほかあるまい。それに、その芳醇な香り……お前に興味がある」
先程もいい匂いがすると言っていたか。
腕を顔の前に持っていき、己の匂いを嗅いでみるが特に変わった匂いがするとも思えない。
まあ自分の体臭は自分ではわからないものだろうが、おそらく俺から今香るものといえば…
「…鬼は汗が好みなのか?」
「……そんなわけがないだろう」
逆に引かれてしまった…
鬼に引かれるというのも少々傷つくものだな…
複雑な心境に陥りながらも、平静に戻ってきた心拍数に安堵する。
煉獄が細く息を吐くと、猗窩座は背にした鳥居の柱に寄りかかり腕を組んだ。
「杏寿郎はどんな家で育ったんだ?」
「…なんだ、藪から棒に」
「言っただろう。お前に興味がある。その若さでそこまでの武を身につけているのだ、剣術か武術を生業としている家なのかと思ってな」
唐突に変わった話題に視線を険しくするが、寛いだ様子の鬼は意に介さずにこにこと笑みを浮かべている。
「きみに話すようなことは何もない」
「杏寿郎の剣筋は正統な流れを受け継いだものだな。流派はあるのか?」
「……」
「その鍛え上げられた肉体もいい。歳はいくつだ?」
「……」
「鍛錬だけでは身体はつくれん。食うものも影響するだろう。好物はなんだ?」
こちらの返答など端から期待していないのか、矢継ぎ早に飛んでくる質問たちに圧倒されていた煉獄だったが、なんだか次第に気が抜けてきた。
「…きみは、」
「今度俺が持ってきてやる。肉か?魚か?」
「……」
…だめだ。
自然と込み上げてくる笑いを抑えきれず、肩が震える。
手で口元を覆い、くつくつと声を噛み殺しているとようやく相手が言葉を切り怪訝そうに眉を寄せた。
「……杏寿郎、笑っているのか?」
「いや…すまん。きみは…話好きなくせに、人の話を聞かないんだな」
「!」
宵闇の中、金色の双眸が大きく見開かれると、刹那ののちにはその輝きは目と鼻の先にまで迫った。
隻眼では瞬時に象を結ぶことができず、脳の処理が追いつかない。視覚に頼らず感覚だけで後方に飛びすさるが、見越したように手が追いかけてくる。