水 天の如し
◇少年、運命と対峙すの段◇
忙しなく息を吐きながら、炭治郎は必死に走る。だが、積もった雪に足を取られ思ったようには走れず、速度は平地を歩むのと大差はない。
空を覆う雲は厚く、また雪が降ってきそうだ。ぐっしょりと濡れた衣服が、炭治郎の体温を奪っていく。けれども足を止めるわけにも、ましてや家に戻り暖を取ることも、かなわない。
背に負った禰豆子の体重が、ズシリと肩にかかる。禰豆子の体は次第に冷たくなっていく。
「がんばれ、禰豆子っ。大丈夫だ。兄ちゃんが絶対に助けてやるっ! もう少し、もう少しだから……っ!」
懸命にかける声は、息が切れてかすれていた。禰豆子に対してというよりも、むしろ炭治郎は、自分にこそ言い聞かせていただろう。大丈夫だと思いたいのも、もう少しだと信じたいのも、炭治郎自身だ。
なぜ、こんなことになったのだろう。勝手に涙が浮かんでは、こぼれ落ちるなり頬で凍りつく。吸い込む息も、肺を凍らせそうに冷たかった。
どうして。なんで。嘘だ。嘘だ。こんなの嘘だ。切れ切れに浮かぶ言葉は、目にした光景を否定するものばかりだ。けれども鼻の奥に残る血の臭いも、冷たくなっていく禰豆子の体も、雪に阻まれ重くなっていく己の足だって、すべてが現実だと炭治郎に思い知らせる。
元宵節(げんしょうせつ)の、灯籠を買いに行っただけだった。父を亡くして沈みがちな弟妹を、喜ばせたかったのだ。小正月の盛大な法会。このときばかりは夜間の外出禁止令も解かれ、美しい灯籠がいくつも軒にあふれ輝く。
いつもは質素で飾り気もない提灯を、子供らの手で作って軒に掲げた。けれども今年だけは、麓の村どころか都でさえも羨まれそうに美しい灯籠を、みなに見せてやりたかった。
都の職人の手による美しい灯籠は、炭治郎が用意した金では少し足りなかった。手伝いをして差額の代わりとしたのは、想定内だ。
夜間の外出禁止令が解かれるのは、元宵節の三日間だけだ。田舎ではゆるい監視の目も、都では衛士(えじ)の目だって厳しい。元宵節までは、まだ五日ほどあった。日が暮れてしまえば、帰ることはかなわない。しかたなし、灯籠を買った店に頼み込み、作業場の片隅で寝かせてもらった。
シンシンと冷える真冬の夜。体の芯までしみる冷気にガタガタと震えて、ろくに眠れもしなかったが、泊めてもらえただけでも僥倖だろう。新年を迎えたばかりだというのに、路地で眠った挙げ句に凍死などしてはかなわない。
夜半から降り出した雪は、朝にはかなり積もっていた。家に帰り着くのは昼をすぎるかもしれない。でも、これだけきれいな提灯だ。もち米だって買えた。母さんと禰豆子が作る湯円(タンユェン/もち米で作った冬至の風物的料理)がみんな大好きだから、喜ぶことだろう。ゴマと小豆だって買えた。今年は甘い湯円と肉の塩辛い湯円の二種が、食卓にのぼることになる。豪勢な食事は望めずとも、こんなささやかな贅沢を、みなきっと幸せだと笑ってくれるはずだ。
働きづめに働いて、ようやく貯めた小銭を握りしめておもむいた都は、人が多すぎてそれだけで疲れた。けれども家族のためだ。険しい山道を、雪を踏みしめ歩く炭治郎の顔は、竹雄たちの喜ぶ顔を想像し、幸せそうに笑んでいた。
だが。
「最近、異民族の侵攻が激しいって話だから、気をつけるんだよ? いくら都は衛士が守ってくださっていると言っても、街道までは目が届かないかもしれないから」
「大丈夫だよ、母さん。ちゃんと注意するから」
心配そうな母を、安心させるために笑って。
「お兄ちゃん、異民族は人を食べるってホント?」
「やめてよっ、六太。そんなこと話してるだけで、襲ってきそうで怖いじゃない」
「花子姉ちゃんは怖がりだなぁ。やーい、弱虫ぃ!」
「なんですってぇ! コラ、待てっ、茂!」
鬼ごっこを始めた茂と花子に、思わず笑みを深め。
「人を食べるってのは荒唐無稽だけどさ、本当に気をつけろよ、兄ちゃん。危ないのは異民族だけじゃないんだぜ? 街道には最近、山賊が出るって噂もあるんだからさ」
「わかってるよ。竹雄も心配性だよなぁ」
ちょっぴり偉そうに忠告を述べる竹雄にも、笑って答え。
「はいはい、おしゃべりはそこまで。お兄ちゃん、早く行かないと、都で夜明かししなくちゃいけなくなっちゃうよ。はい、たいしたものは作れなかったけど、お弁当持っていって。気をつけていってね」
禰豆子の細やかな気遣いに、感謝し、笑って包みを受け取りうなずいた。
いつもの光景だった。母が炭治郎の身を案じてくれるのも、花子たちがワイワイと騒がしいのも、なにひとつ、変わったことなどない。いつもの、見慣れた日常の一場面だ。炭治郎の顔にも、家族の顔にも、笑みがあった。
いってきますと炭治郎は手を振り、家族もいってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。当たり前の会話と笑顔。ただいまと戻れば、必ずおかえりなさいと出迎えてくれる家族がいる。幸せだと思う。暮らしは貧しいし、父も病に取られたが、それでも助け合って生きる毎日は、穏やかだ。
そんなささやかな幸せは、今日も、明日も、変わりなく続いていくのだと、炭治郎は思っていた。
なのに、後生大事に灯籠を抱え持ち帰り着いた家に、日常はどこにもなかった。
温かいはずの家は、シンと冷え切って、血の臭いがした。
熊か? それとも虎か? あきらかにみんなは食われていた。やわらかな腹ばかりをえぐられて。鋭い爪で喉をかき切られて。血も、肌も、髪も、なにもかもが冷たく凍りついていた。
まだ温もりがあったのは、禰豆子だけだった。
麓の村まで行けば、医生(医者)がいる。怪我を診てもらうのだ。どんなに高価な薬が必要であってもいい。自分は食うや食わずになろうとも、禰豆子が、禰豆子だけでも生きていてくれるなら。そうだ。助けてみせる。絶対に助けるから。禰豆子!!
ひたすらに祈り、炭治郎は必死に走った。それでも深い雪は行く手を阻み、ちっとも先に進んだ気がしない。早く、早く、一刻も早く。気ばかりが焦って、息が苦しい。
「おや、エサが増えた」
聞こえた声は、喜々としていた。女の声だ。まだ麓の村まではだいぶある。こんな雪の日に、山に登ってくる女など、いるだろうか。ヒヤリと背筋を冷汗が伝った。
人の声は、炭治郎に安心をもたらすどころか、恐怖を与えるものでしかなかった。
あわてて周囲を見まわすが、人の気配は感じられない。けれども幻聴などとは思えなかった。
「だ、誰だ!」
「生き残りがいたのかえ。私としたことが、もったいないことをしちまうところだった」
クツクツと笑う声は、ドロリと粘るようだった。
昼日中だというのに、厚い雲に阻まれて、周囲は薄暗い。高い梢からドサリと雪が落ちて、炭治郎は背負う禰豆子を支える手に、力を込めた。
「生き残り……禰豆子のことか?」
顔がこわばる。姿を見せぬ女の声が示すものが、空気の冷たさよりもなお、炭治郎の腹のうちを凍りつかせた。
母や竹雄たちの体は、明らかに食い散らかされていた。人の仕業ではありえない。
だがもし、女があの惨劇の場にいたのだとしたら、なぜ女は生きているのか。なぜ獣に食われていないのだろう。