水 天の如し
そもそも、この声の主は何者だ。こんな山奥に、雪を踏みしめやってくる酔狂なものなど、そうそういない。なのになぜ、女はここにいる?
「ほかのを食らってるあいだにくたばって、すっかり冷え切ってると思ったのにねぇ。やれ、うれしや。私はね、腸(はらわた)が好きなのさ。とくに、生きてるうちに食うのがね。湯気を立てるほどに温かいやつが、一番うまい」
食い破られていた、母の腹。花子も、竹雄も、茂も。六太の小さな体は、胸より下がごっそりなかった。
虎か、熊だと思った。真冬の今、熊は冬眠中だけれども、虎はいる。それに熊だって、この時期に動き回っているやつがいないわけではない。総じてそういう熊は凶暴だ。だから、炭治郎は、獣の仕業だと疑わなかった。
けれど。あぁ、だけど。
「おまえ……おまえが、食ったのか……? 生きたまま……生きたまま俺の母さんを、竹雄を、花子をっ、茂と六太を!」
脳髄の奥が、カッと燃えた。激高して叫んだ炭治郎に、声は嘲笑をひびかせた。
「出てこいっ!! 俺の家族をよくも……っ!!」
どれだけ怖かっただろう。どれだけ痛かっただろう。涙が勝手に溢れ出す。怒りが身のうちで灼熱となって暴れまわっていた。武器は、万が一のために腰に帯びていた鉈だけ。剣があったとしても、炭治郎には使うことなどできなかっただろう。炭治郎の家は、窯場だ。土を練り陶磁器を焼く。ただそれだけしかできない。
それでも、己がどうなろうとも、禰豆子を守り家族の仇を打つ。決意は熱く炭治郎の胸で燃えていた。
とはいえども、姿が見えぬことにはどうにもならない。
「姿を見せろっ、卑怯者!」
「生意気なガキだ。言われぬでも見せてやろうよ。そら、とくと見るがいい」
ドサリとまた、背後で雪が落ちた。ビクリと肩を跳ねさせ振り返った炭治郎の目に映ったものは、雪の塊だけだ。そのとき、かすかに鼻先をよぎったのは、血の臭いだった。そして、生臭いような、物が腐ったような、なんともいえぬ悪臭。
「どっちを見ている。ほれほれ、私をごらん。どうだえ? 私は美しいだろう? 恐ろしいだろう? 怖いものは美しいのさ。だから私はこんなにも美しい。あのお方の美しさにはおよばずとも、もっともっと美しくなる。おまえの血肉と恐怖を食らってね」
クククッと忍び笑う声のほうへと、あわてて目を向けた炭治郎は、とっさに上がりかけた悲鳴を飲みこんだ。
虎。いや、違う。二本の足で立っている。けれども人ではない。ありえない。長い尾をパシリパシリと雪に打ちつけながら立っていたのは、虎の毛に覆われながらも人の形をした、異様な生き物だった。
かろうじて性別を判断できる乳房の膨らみも、毛に覆われている。身につけているのは腰にまとう裳(も)だけで、そこだけ人の理性を残しているように見え、やけに異質だ。爛々と燃える瞳と、大きく裂けた口。顔だけはつるりとしていた。やけに生白く、大きな口は血濡れたように赤い。
女は鋭い爪と牙を持っていた。ニタリと笑う口から覗く牙は、黄ばみながらも光っている。
「と、虎……?」
「私を獣風情と一緒にするなど、不遜なガキだねぇ。だがまぁいい。私はやさしいから、選り好みはしないでやろうよ。おまえの腸も残さずたいらげてやるから感謝しな!」
言うなり女は音も立てずに飛び上がった。雪煙が立ちのぼる。とっさに腰の鉈へと手をやった炭治郎の背から、禰豆子がズルリと落ちそうになった。
一瞬、炭治郎の意識が禰豆子へと逸れた。
まばたき一つする間でしかなかった。けれどもそれだけで異形の女は、炭治郎に肉薄している。鋭い爪が眼前に迫った。駄目だ。間に合わない。鉈を抜く余裕などなかった。
禰豆子だけは……っ!!
決心は早く、雪の上へと落ちた禰豆子に、炭治郎は覆いかぶさった。死が目前に迫っていた。
泰山(死者の集まる山。冥府への入り口)へ行けば、母さんたちに逢えるだろうか。ちらりと思う。生身では果たせぬ願いも、魂魄別れ、死者となれば、果たせるかもしれない。そんな愚かな考えが頭を占めた。
禰豆子。禰豆子。おまえだけは、守るから。
力のかぎりに抱き締めた禰豆子の体は、もう温もりがない。だがまだ、かすかに息がある。死なせるものか。食わせてなるものか。たとえこの身は異形の怪物の顎門(あぎと)に噛み砕かれても。
死と延命の覚悟は、けれど、辺りに轟きわたった絶叫によって、寸時炭治郎の心から消えた。
自失は一瞬である。即座に我に返り振りむいた炭治郎の目が、吹き上がる血しぶきをとらえた。
誰……?
悲鳴を上げてのたうち回る怪物と炭治郎の間をへだてるように、男がひとり立っていた。吹き抜けた風に、男のまとった外套がはためく。男の手には抜身の剣があった。
撒き散らされる血しぶきが、純白の雪を真紅に染めている。異形の怪物であれど血は赤いのか。妙な感慨がふと湧いた。
暫時ぼんやりとしていた炭治郎は、雪に落ちているそれに気づき、ヒッと小さく悲鳴を上げた。虎の毛に覆われた腕が、雪の上でもがいている。斬り落とされてなお、腕はそれ自体が生き物のようにうごめいていた。
男の手がスッと掲げられた。握る刀剣が、キラリと光を弾く様は、なんだか現実味がない。こんなのは、日常にふさわしくない光景だ。あぁ、そうだ。冬の間に村へ興行にくる劇団の舞台。講談師の話のなかにしかありえぬ光景。夢の……とびきりの悪夢のなかの、光景に違いない。
けれども、夢ではなかった。頬をなぶる風の冷たさも、血の臭いも、冷えた禰豆子の体の重みだって、すべてが紛うかたなき現実だと、炭治郎に突きつけてくる。
音もなく、鈍い銀色に光る刃が振り下ろされる。その瞬間を、炭治郎は見ていなかった。とっさに目を閉じてしまったのは、ただの反射だ。炭治郎とて山の獣を屠ることはある。命を奪い、食らう。そうでなければ自分と家族が生きられない。だがそれでも、残酷な光景は苦手だった。
ふたたびあがった金切り声は、もはや意味のある言葉をなしていない。命乞いの間すらなかった。バサバサと鳥が羽ばたく音がする。怪物の悲鳴に鳥たちが逃げたらしい。見たくない。けれども、目をそらしてばかりもいられない。覚悟を決めて、炭治郎は恐る恐る目を開けた。
禰豆子を抱く手の力はそのままに、炭治郎は、惨劇の結末を確認すべく男へと視線を向けた。赤く染まった雪の上で、首のない怪物の体がビクビクと痙攣している。またあがりそうになった悲鳴をどうにかこらえ、炭治郎は震える唇を開いた。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
男が何者なのかはわからない。なぜここにいるのかも、理解がおよぶことはなかった。それでも、男が炭治郎たちを助けてくれたことだけは間違いない。
炭治郎の礼を聞いているのかいないのか、男は眼差しを炭治郎へ向けることもなく、冷めた目で怪物が息絶えるのを見下ろしている。
軍人、なのだろうか。刀剣を手にしているからには、そう考えるほうが自然だ。けれども男のまとう空気は、炭治郎が知る都の衛士とはずいぶんと異なる。居丈高さなどどこにもなく、静謐さしか男の佇まいからは感じられなかった。