水 天の如し
食堂としている房(部屋)の入り口から聞こえた声は、どこかしらつっけんどんに聞こえる。錆兎だ。
「錆兎、義勇も久しぶりだねぇ」
「まったくだ。しょっちゅう入り浸ってるくせに、俺らが来るときにはいないんだからな」
「そんなことないよぉ。たまたま重なっちゃっただけじゃない? それより……錆兎、ずいぶん背が伸びたねぇ。もうつま先立ちしても届かないや」
偉い偉いと幼い子を褒めるかの如くに、真菰が腕を伸ばして錆兎の頭を撫でようとした。
「やめろ。子供じゃないんだぞ。男にそう簡単に触れようとするなっ」
「錆兎なのに?」
あぁ、それを言っちゃあ……。炭治郎は思わず天を仰いだ。他人事ながらこれは男として立つ瀬がない。とはいえ、炭治郎にはまだまだ恋など想像するしかないのだけれど。
「……もういいっ。飯だろ。さっさと食うぞ」
「もぅっ、錆兎の怒りん坊。義勇。義勇も同じくらい大きくなったね。初めて逢ったときは私と同じくらいの背だったのに、男の子の成長は早いねぇ」
ニコニコと近づいていく真菰に、義勇はコックリとうなずいている。錆兎のように気を悪くするでもないのは、元来おおらかだからなのか、感情がないゆえか。おそらくは後者だと思うと、また炭治郎の胸がシクリと痛んだ。
真菰の手が伸ばされるのにあわせて義勇の頭が下げられ、癖の強い黒髪をたおやかな手が撫でるのを見てしまえば、ますます痛みは強くなる。真菰は炭治郎にも幼い子供に接するような態度を取ることが多い。だからこんなのは、とくに意味などないとわかっているのに、なぜだか胸が痛い。
ふと、炭治郎の袴褶から手を離し、禰豆子がトトトッと義勇に走り寄った。んっ、と両手を伸ばす禰豆子を、義勇は無言のまま受けとめ抱き上げる。炭治郎の胸を、先までとは違う痛みが襲った。
それはなんとも甘苦しい痛みだ。キュウッと胸が締めつけられるような、切なさに似た痛みである。
言葉にするなら、それはときめきと呼んでもいいかもしれない。
吸い寄せられるように炭治郎は、義勇に向かい足を踏み出した。義勇の腕に抱かれた禰豆子は、いたくご満悦だ。
「義勇さんに抱っこしてもらえてよかったなぁ、禰豆子」
笑って頭を撫でてやれば、むぅっと機嫌の良い声をあげ禰豆子は笑う。義勇の表情は変わらない。けれども。
スンッと炭治郎は鼻をうごめかせた。
あぁ。やさしい匂いがする。義勇さんの匂い……どうしようもなく、心が惹きつけられる、気持ちのいい匂い。
知らずうっとりと目を細めた炭治郎に、いつのまにやら来ていた鱗滝の声がかけられた。
「まだ義勇から匂いはしているか?」
「はい……いつもどおりに」
そうかとうなずく鱗滝も、じっとやり取りを見ていた錆兎からも、どことなく安堵の気配がした。
「わしでも嗅ぎ取れん義勇の心の残滓を、炭治郎だけは嗅ぎ取れるか……さすがは宿縁で結ばれているだけはあるというところかな」
感嘆ともからかいとも判断つき難い声音は、少し笑んでいた。炭治郎の頬がホワリと花の色に染まる。
「あ、あのっ、義勇さん。今日は鮭もとれたんです。大根と一緒に醤(ジャン/味噌)で煮てみました。お口にあうといいんですけど」
照れくささをごまかすように言った炭治郎に、答えてくれたのはやはり義勇ではない。
「よかったね、義勇。鮭、好きだったもんね。炭治郎、よく覚えてたねぇ」
「錆兎が、前に教えてくれたから……次に義勇さんが来るときは絶対に鮭の料理にしようと思って」
「健気だねぇ。いいお嫁さんになれそう。義勇、可愛くて料理上手なお嫁さんでよかったね」
真菰の言葉に、炭治郎はギョッと目を見開いた。
「嫁!? いやっ、俺は男だから義勇さんのお嫁さんにはなれないけどっ!?」
慌てふためきながらも、勝手に熱くなっていく頬は何事か。炭治郎にはよくわからない。義勇のことになるといつもこうだ。これも宿縁ゆえなのか。
「そうかなぁ。重陽の寵とかあるでしょう? 周の穆王(ぼくおう)と菊慈童(きくじどう)とか」
「菊慈童は流罪になってるだろ……縁起でもない。それより、炭治郎。おまえが出立できるだけの実力がついたか、元宵節の前に試験することになったぞ。合格すれば晴れて俺らと一緒に旅に出ることになるからな。がんばれよ」
重陽の寵とはなんのことだろうと首をひねっていた炭治郎は、錆兎の言葉にたちまち目を輝かせた。ブルリと武者震いすらしてしまう。
「はいっ! 絶対に合格してみせます!」
ニッと笑い返す錆兎にうなずき、義勇へと眼差しを向ける。
合格するんだ。絶対に。そして、この美しい人のきれいな匂いの源を、必ず取り戻してみせる。禰豆子だってきっと……。
義勇から香るかすかな匂い。緑濃い竹林や、清涼なせせらぎを思わせるそれは、義勇の心に存在する、砂礫のような感情の残滓だ。あまりにも淡くて、最初は気づかなかったその匂いは、いつしか炭治郎にとってなによりも心地よい匂いとなっていた。
感情を失っているとはいえ、義勇の生来のやさしさは消え去ってはいない。禰豆子を抱き上げてくれるのも、義勇の身に染み付いたやさしさゆえだ。それは記憶と言い換えてもいいだろう。
当たり前にしてきたことだから、感情がなくとも体が動く。転んだ人がいれば手を差し伸べ、幼子が近づけば撫でたり抱き上げたりしてくれるのは、以前の義勇が息を吸うようにそうしてきたからだ。
甘く爽やかで、澄んだきれいな匂い。それが、義勇の心。破片とも呼べぬようなかすかな残滓となってもなお消えぬ、その生来の温かく穏やかな心根が、炭治郎を惹きつけてやなまい。
義勇とは宿縁で結ばれているのだろうと、鱗滝は言った。義勇の匂いに気づいた折に、出逢いのときの義勇の様子を錆兎から改めて聞き、導き出した結論が「宿縁」だ。
あの日、義勇はなにかに呼ばれたのだと言う。頭のなかでひびいた声に体が勝手に動いた。助けてとの呼びかけに応えて。
誰の声かとの鱗滝の問に、じっと炭治郎を見つめ
「炭治郎」
と、いつもの抑揚のない声で義勇は言った。
初めて義勇に名を呼ばれた瞬間だった。
そのときの、胸の奥に湧き上がる歓喜を、炭治郎は忘れられずにいる。勝手に目は潤み、法悦に身が震えた。歓喜。幸福。愉悦。どれだけ言葉を尽くしても、その瞬間を言い表すには足りない。名を呼ばれた、ただそれだけのことなのに。
「義勇と炭治郎は強固な縁で結ばれておるのかもしれんな。前世の宿縁があるのだろう。出逢いは天の定め給うた理よ。逆らうことなどできるわけもないわ」
感慨深く言って鱗滝は、炭治郎ならば義勇の感情の在り処がわかるかもしれないと宣ったのだ。それは天啓にも似て、炭治郎には聞こえた。
出逢いという縁は定め。人の身には逆らえぬもの。けれどもその先は、卦でもわからぬ。指針とはなりえても、人の縁は己の心根、行動次第で、強く結ばれもすれば断ち切れもする。
義勇との縁を、切りたくはない。できることならば、強く、もっと強く。天の定め給うた縁よりもなお、なお強く。
願う心の所以はまだ知らぬ。それでも強く、炭治郎は願う。その先に、輝く明日はきっとある。禰豆子を人に戻し、笑う義勇に微笑み返すのだ。