水 天の如し
◇少年、天秤秤に己が命を乗せる一歩を踏み出すの段◇
「とらえたっ!」
気合一閃、炭治郎が振りかぶった木剣は、だが、カァンと高い音を立ててあっけなく弾き飛ばされた。
「甘い! 剣は決して手放すな! 呼吸が乱れているぞ!」
たちまち飛んでくる叱責は、腹への鋭い一撃とともにだった。避ける間などまるでない。
「ぅぐっ!」
「んー、まだ半拍遅れるねぇ。思考と動きは一緒じゃなきゃ駄目だよ。見えた、こう動こう、動くじゃ駄目なの。見えたと同時に動いてる。それが大事。相手が攻撃に転じる一瞬だとかに、隙が生まれることはあるけど、見えたと思ったときにはもう動いてなきゃ、手練な相手ほど隙を消し去るのは早いから間に合わないよ。炭治郎はまだまだ考えてから動いてるね。あ、それから、隙ができるのは自分もだからね? 気をつけないとこうなるよ」
思わず膝をつき腹を抑えてうめいた炭治郎に、真菰があどけない声で言う。炭治郎を打ち据えた木剣をトンッと肩に乗せ、錆兎はしかめっ面だ。
余裕綽々、面憎いほどに。いや、憎いどころかありがたい話だけれども、と、炭治郎は痛みに呻きながらも思う。
錆兎と義勇の来訪から早七日。いつもは三日と経たずに出立する二人は、いまだ鱗滝老師の居にとどまってくれている。言うまでもなく、炭治郎に修業をつけるためだ。主に錆兎が、だけれども。というよりも、錆兎しかというべきか。
義勇がなにもしてくれないことは、もう納得している。ズキズキする腹を押さえつつ、炭治郎は落ちた木剣へとにじりよった。
炭治郎が二人とともに旅に出るためには、鱗滝の試験に合格しなければならない。でなければ、とうてい二人について行くなど無理難題が過ぎる。いくら義勇の感情の破片を探すには炭治郎の鼻だけが頼りではあっても、自分の身ぐらいは守れなければ、二人にとっては足手まといにしかならないのだ。
「す、すみません! 続きお願いしますっ!」
よろめきつつも立ち上がり、拾い上げた木剣を構えた炭治郎に、錆兎がニッと笑った。
「根性だけはついたじゃないか、小朋友(坊や)。だが、まだまだ男の面構えにはほど遠いな」
言うなり消えた錆兎の姿を、視線だけで探す。錆兎は神出鬼没だ。仙術など使えないはずなのに、その素早さは仙女である真菰に引けを取らない。
右、いや、左――。
「上!」
頭上から襲いかかる木剣を、間一髪、受け止める。錆兎の剣は鋭く重い。沈み込みそうになる体を、グッと足を踏ん張りこらえ、炭治郎は、地を蹴り跳び上がる反動を活かし錆兎の剣を押しやった。錆兎はすでに飛び退(すさ)り、打ちかかる炭治郎の剣をなんなく跳ね返してくる。まただ。どうしても炭治郎の剣は錆兎に止められる。届かない。
「遅い! そんなことでは鬼の速さにはついていけないぞ! 一瞬で肉塊になることうけあいだ、禰豆子を人に戻すんじゃないのかっ?」
「ぐっ、戻して、みせるっ! やぁぁっ!!」
気合は十分。けれども、気合いと根性だけでは、果たせぬものがある。弾かれた木剣を手放さずに済んだだけでも上々のありさまだ。猛攻に転じた錆兎の剣を、受け止めるだけで炭治郎は精一杯である。
なにか、反撃の手は。目まぐるしく手立てが浮かんで消えるが、決め手にかける。それ以上に、反撃に移るきっかけが見つからない。こめかみを汗が伝った。打ち合いだしてまだ幾ばくもないのに、剣戟の重い連打に早くも手がしびれてきていた。
カンカンと激しくひびく打撃音が、穏やかな仙境にこだまする。この七日間、毎日錆兎は手合わせしてくれているが、炭治郎はまだ錆兎に一撃すら与えられずにいた。
「呼吸を乱すな! 苦しくとも耐えろ! 男ならば!」
「はいっ!」
返事ばかりは勇ましく、けれども、どうにも反撃の狼煙を上げられない。防戦一方の炭治郎の耳に、パンッと鋭い音が届いた。
ピタリと錆兎の剣が止まる。
「なんだ? 義勇」
乱れかけていた呼吸を整えながら、錆兎の声に炭治郎が振り返れば、義勇が静かに歩み寄ってきていた。先ほどの音は、義勇が手を打ったものらしい。
滞在中、義勇が手ほどきしてくれたことは、一度もない。無言のまま錆兎との手合わせを見ているか、鱗滝の仙洞で書を読んでいるかだ。たまに禰豆子がじゃれついて、無表情のまま相手をしてやっているらしいけれども、残念ながら修業に明け暮れ疲労困憊で戻る炭治郎は、その癒やしの光景を目にすることはほぼない。
試験が近いということで、真菰も毎日修業に付き合い、助言してくれているというのに、義勇だけは炭治郎の合格になどなんの興味もないようだった。
感情を持たない義勇に、励ましや労りを求めてもしかたのないことだ。理解はしている。だが、切なさはいかんともし難かった。
だというのに、今日はどうしたことだろう。錆兎や真菰も、めずらしいこともあるものだと言いたげな目で義勇の出方を窺っていた。
「あの……」
「目で足りないのなら、鼻を使え」
パチクリとまばたく炭治郎に、用は済んだとばかりに背を向ける義勇からは、なんの感情の匂いもしない。そのまま元いた場所に戻ると、義勇はまた無言でじっと炭治郎を見据えていた。
「鼻……匂いをたどれってことか?」
つぶやき、炭治郎は、決意を込めて強くうなずいた。
「錆兎、もう一度お願いします!」
フッと笑った錆兎が、トンッと後ろに跳んで間合いをとった。
「行くぞっ!」
「来いっ! 今度こそ一撃入れる!」
視覚だけでは、錆兎の動きにはついていけない。五感を研ぎ澄ませ。俺は鼻が利く。錆兎の動きを鼻でも見るんだ。
シュンッと消えた錆兎の匂いを見失わぬよう、炭治郎は極限まで神経を張り詰める。呼吸は鼻から吸い、口から吐く。丹田が熱い。手足をめぐる血の流れ、気の流れを感じた。
錆兎の残像を目で追うのではなく、すべてに意識を向けなければ、錆兎に追いつくことすら不可能だ。木立の合間を飛ぶ錆兎に合わせ、葉が落ちる。風が生まれる。鳥のさえずりのなか、かすかにタンッと音がした。錆兎が木の幹を蹴りつけた音。驚いた鳥が飛び立った。その羽ばたきも、見逃すな。聞きもらすな。身の回りの些細な情報すべてが、戦いにおいて味方になり、敵にもなる。
そして、匂い。風が運ぶ木々や花々の匂いに混じり、闘気をまとった錆兎の匂いが炭治郎の鼻に届いた。
来る。
鋭い木剣の軌跡が生む空気の流れを、わずかに頬に感じた。カァンと、打撃音を高く響かせた炭治郎の剣は、そのまま返す手首で上へと振り抜かれた。後方への宙返りで避けられはしたが、剣先は錆兎の顎先を髪一筋ほどの差で掠めた。
トンと地についた錆兎の足が、一瞬の間すら置かず地を蹴り、剣が振りかぶられる。
見えた。
炭治郎は迷わず踏み込んだ。
匂いが教えてくれる。義勇の言葉どおりに。目ではわからない、あるかなしかの隙。それを匂いは示していた。まるで細い細い蜘蛛の糸のような、隙の糸が、見える。その瞬間までは、なにもかもがゆっくりとして見えた。
そして。
「……とうとう、一撃入れられたな。男の顔になった。だが」