水 天の如し
険しかった錆兎の顔に、慈しむようなやんわりとした笑みが浮かんだ。首筋寸前でピタリと止められた木剣を、軽く押しやり、錆兎は浮かんだ笑みはそのままに、炭治郎の頭にコツンと拳を落としてきた。
「寸止めなんぞ百年早い。おまえの一撃ぐらい、蚊が止まったぐらいのもんだ」
「だって、錆兎さんを打つなんてできませんよ。それに、蚊よりはマシだと思うんだけどなぁ」
言い草はなんだが、お褒めの言葉には違いない。ふつふつと炭治郎の胸に喜悦がこみ上げてくる。
まだ試験に合格したわけではない。そもそも、試験の内容すらまだ教えられていないのだ。けれども、この二年近くの修業の成果は着実に身についているという実感が、やっとわいてきた。
「義勇さんっ!」
満面に笑みをたたえ振り返った先で、義勇はいつもの人形のような無機質な顔で佇んでいる。疲れもなんのその。弾む足で駆け寄った炭治郎に、義勇は声をかけてくれるでもない。それでも炭治郎の喜びは消えやしなかった。
「義勇さんの助言で、やっと錆兎に一撃入れられました! ありがとうございます!」
コクリとうなずいただけで、義勇は無言のままだ。このうなずきも、おそらくは反射でしかないのだろう。助言だってきっと、なにかを思ってのことではないに違いない。困っているものがいれば手を差し伸べる。そんな義勇本来の気質が、行動に出ただけのことだろう。炭治郎がどれだけ笑いかけ礼を述べても、義勇の顔にはなんの感情も浮かんではいない。
けれども、ごく淡い匂いがする。炭治郎を惹きつけてやまぬ、優しさの破片が醸し出す義勇の匂いだ。
自分と義勇を繋ぐ宿縁を感じる。義勇の静かな瑠璃の瞳を見ているだけで、炭治郎の胸は喜びに弾みもすれば、切なさに引き絞られもする。
宿縁。その摩訶不思議な縁。なぜ自分と義勇にそんなものが課せられたのかなど、炭治郎には預かり知らぬことだ。義勇が背負った悲運や、自分を襲った絶望を、喜ぶわけにはいかないが、出逢えた喜悦は計り知れない。
「どうにか元宵節に間に合いそうだね。よく頑張ったね、炭治郎」
よしよしと幼子を褒めるように頭を撫でてくれる真菰の幼い手に、炭治郎は照れ笑いを浮かべた。
「うん! ありがとう、真菰。いっぱい助言してくれたのに、なかなか活かせなくてごめん」
「いいよぉ。だってちゃんとできるようになったじゃない。炭治郎はいい子だねぇ」
ウフフと笑う真菰につられ、炭治郎の笑みも深まる。コホンと空咳が聞こえた。
「どうにか形にはなったが、まだ試験に合格したわけじゃない。努力はどれだけしたって足りないんだ。気を抜くなよ、炭治郎」
いかにも厳しい大哥(兄貴)然として言う錆兎に、炭治郎も表情を引きしめうなずいた。だが、言葉の裏にほんのわずかな悋気がある気がしてしまえば、なんだか少し可笑しくもなる。
「……おい、男がニヤつくんじゃない」
「ごめんなさいっ。あっ、そろそろ夕飯の材料を調達してこなきゃ! 今日は十全大補湯(じゅうぜんたいほとう/当帰や人参、肉桂など十種の生薬を用いて鶏肉や豚肉を長時間に込んだスープ)を作りますからねっ。期待しててください!」
言うなりポンと地を蹴った炭治郎の背から、アハハと明るい真菰の笑い声が聞こえてくる。
「元気いっぱいだぁ」
「本当に、仔猿みたいだな。ま、体力があるのはいいことだ」
うぅん、勝手なことを言われてるなぁとチラリ思いつつ、炭治郎は梢を渡り跳んでいった。錆兎に言われるまでもなく、浮かれすぎるのは良くないだろう。けれどもうれしくてたまらないのだ。これで試験が受けられる。合格すれば、晴れて義勇たちと一緒に旅に出られる。
義勇の感情を取り戻し、禰豆子を人に戻すのだ。
固い決意に怯えはない。旅はけだし艱難辛苦を極めるだろう。不安がないとは言いがたい。錆兎や義勇にくらべれば、炭治郎の剣術や体術など、まさに猿並みでしかないのだ。
けれども炭治郎の胸は、先の不安よりも遥かに大きな喜びに満ちていた。義勇とずっと一緒にいられる。喜ぶのは不謹慎だろうか。だが幸福感は抑えがたい。
宿縁の相手。そばにいられると思うだけで、こんなにも胸弾み幸せに包まれるのは、今は炭治郎だけだ。義勇はきっと、なにも思うことはない。
「義勇さんの感情を、絶対に取り戻すんだ」
そのとき、義勇はどんな顔で炭治郎を見てくれるだろう。飛び跳ねまわる炭治郎の胸は、甘くうずいていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仙になる前、鱗滝老師は武人だったという。国軍で大将軍を担っていたと聞き、炭治郎は仰天した。なんと剣聖とも称されていたらしい。
思うところあって剣を置き、世を捨て地仙となった鱗滝は、ほかの仙たちからするとかなりの変わり者なのだそうだ。以前に真菰が笑って教えてくれた。
仙人というのは、市井の人々とは関わらぬものだ。けれども鱗滝は、たびたび下界へ降り立ち、子らに武術やら学問やらを教えていたと、錆兎や真菰は声をそろえて言う。義勇と錆兎が鱗滝と知り合ったのはそのころだ。まだ十になるかならぬかという年頃だったらしい。ふたりの技量はほかの子らとは一線を画していたようで、鱗滝はずいぶんと熱心に教えてくれたと錆兎は笑った。
「あぁ、それで錆兎さんや義勇さんはあんなに強いんですね。鱗滝さんがそんなにすごい人だなんて知りませんでした」
明日はいよいよ試験に挑むという夜のことである。真菰は帰り、禰豆子はすやすやと眠っている。夜だというのに、どこかで倉庚(うぐいす)が春来たらんと時の音を立てていた。下界では新年を迎え、炭治郎が暮らしていた雲取山のあたりは雪に埋もれているだろう。窓の外では、こればかりは下界と変わらぬ、真円にはわずかばかり足りぬ月が輝いていた。
狭霧山に季節はない。冬の夜であっても寒さは感じることがなかった。春を告げる鳥だって鳴く。据えられた炉炭は暖を取るよりもむしろ、茶などを淹れるのに使っている。パチパチと炉のなかで爆ぜる木炭に、なんとはなし炭治郎は故郷を思い起こした。
緊張し落ち着かぬ炭治郎に苦笑し、茶でも飲んで少し話をするかと錆兎が声をかけてくれたのは、半刻(一時間)ほど前のこと。
以前の暮らしではとうてい望めぬ高価な餅茶(へいちゃ)を淹れることにも、もう慣れた。仙らしく鱗滝の暮らしは質素だが、茶だけはどうにも清貧にとはいかぬらしい。それだけが道楽とばかりに、茶器も炭治郎が焼いていたものとはくらべられぬほどに華奢で繊細な作りだった。
温かな湯気とともに薄荷の匂いが鼻をくすぐる。静かな夜だ。
「まぁ、義勇は、剣術を習うのはあまり乗り気じゃなかったけどな」
錆兎は肩をすくめてそんなことを言い、苦笑した。
最初のうちは炭治郎の緊張をほぐすためにか、旅の話などしてくれていた錆兎だが、いつしか会話は昔話となっていた。
炭治郎は盛大に驚いたのだが、義勇の生家である冨岡家というのは、国家の方針を占う最高位の星見の家であるらしい。家を継ぎ、星見を継ぐのは男女の区別なく長子だ。本来であれば義勇の姉がその役目につくはずだったと、錆兎は少し寂しそうに言った。
そんな錆兎はといえば、これまた驚いたことに、冨岡家の家生(使用人)だという。