水 天の如し
だからといって、鱗滝には水の呼吸以外は教えられず、真菰や錆兎だって同様だ。いずれほかの呼吸の使い手に出会い、自分なりの呼吸を身につけることになるかもしれないとは言われたが、炭治郎にはあまりピンとこない。
波濤よりはゆるやかな流水紋や青海波が、せめての祈りなのだろう。
知らず涙ぐみながら着込んだ服は、炭治郎の体にピタリと馴染んだ。
「行ってきます!」
餞の服を着、覚悟の刀をたずさえて、馬上の人となった炭治郎は鱗滝たちに向かい、大きく手を振った。
「オイッ、ワタシニ乗ッタカラニハ、不甲斐ナイ真似ヲスルンジャナイゾ! マッタク、コンナヒヨッコノ面倒ヲ見ロトハ、鱗滝殿モ困ッタモノデアール。馬鹿ナコトヲシデカシタラ振リ落トスゾ」
「えぇー、そんなこと言うなよ。これから一緒に旅をするんだからさ、仲良くやろうよ、松衛門」
ぶつくさと文句を言う今後の相棒たる愛馬に、炭治郎は思わず苦笑いだ。愛馬と言っても今のところそれは、炭治郎の言い分でしかなく、当の松衛門は炭治郎のことを不肖の弟子ぐらいにしか思っていないようだ。
そんな松衛門と炭治郎の会話を聞く錆兎と甚九郎は、これまた苦笑しきりだ。松衛門だって天馬としてはまだまだ位が低い。人語を解するのに不自由はないが、甚九郎や寛三郎とくらべれば、なんとはなしぎこちない口調だ。錆兎たちにしてみれば呆れるよりほかないと言ったところなのだろう。寛三郎は老齢ゆえ、聞き間違いや言い間違いが多く、ぎこちなさは松衛門と大差はないけれども。
「体に気をつけてねぇ」
「達者でな」
仙境、狭霧山の峻険な山道を人馬はゆく。しばらくは、この山道を登ることはあるまい。
炭治郎の腰には、もう一つの贈り物である朱塗りのひょうたん。真菰のお手製で禰豆子ちゃん専用というそれは、錆兎のひょうたんと違い快適なのかもしれない。キャッキャと禰豆子は出たり入ったりを繰り返したものだ。今も、ひょうたんのなかで健やかな寝息を立てていることだろう。
真菰と鱗滝は長くその場で手を振り続けてくれた。振り返るたび小さくなっていく姿に、炭治郎も何度も手を振り返す。
次に逢える日は、いつになるだろう。長い旅になる。もしかしたら、これが今生の別れとなる可能性もあった。
狭霧山の上に広がる蒼穹を見上げ、炭治郎は、もう見えなくなった二人の姿と、先をゆく錆兎と義勇の頼もしい背中に誓う。
いつかこの青空の下、みんなで笑いあうのだと。
決意は大いなる覚悟とともに、炭治郎の胸を熱く燃やしていた。
「ねぇねぇ、おいしい桃が手に入ったの。一緒に食べない?」
「どこから来ましたかっ!?」
禰豆子のひょうたんが、まさか狭霧山とつながっているなど思いもよらぬ炭治郎が、突然天幕に現れた真菰に叫ぶまで、あと半日ほど。旅は始まったばかりだ。