水 天の如し
唐突な会話に、炭治郎の涙がピタリと止まる。いったいなんのことやら。わからずに、フンスと胸を張る禰豆子といたずらっ子のように笑う真菰を、交互に見やった炭治郎同様、錆兎も怪訝そうに首をひねっていた。まったく動じていないのは、空竹を手にぼんやり佇んでいる義勇だけだ。
「まぁ、いずれわかる」
笑みを含んだ答えは、空中から聞こえた。
卓の傍らにふわりと霞が湧き、不思議な赤い面をつけた老爺がこつ然と現れた。
「老師、お疲れさまでした。禰豆子になにか新たな術でも?」
スッと立ち上がり拱手礼をとった錆兎に、鱗滝は鷹揚に笑った。
「なに、儂はなにもしておらん。それよりも炭治郎。食事の前に渡すものがある。こちらへ」
さっさと房を出ていく鱗滝に手招きされ、炭治郎が思わず周囲を見回せば、錆兎はやはり首をかしげていたが、真菰はなにやら訳知り顔でニンマリと笑っている。義勇と禰豆子は……言うまでもないだろう。
「ホラ、行っておいでよ、炭治郎。禰豆子ちゃんは私のお手伝いしてね」
「むぅっ」
ぴょんと飛び跳ねるようにして真菰と一緒に竈に向かう禰豆子へ、心なし置いてけぼりの寂しさを覚えたけれど、それは微笑ましい光景でもある。
禰豆子は長女だけあって、炭治郎と同じく弱音を吐かない。誰かに甘えてみせたのも、今の見た目と変わらぬ年ごろまでだ。竹雄たちが生まれてからは、母と変わらずみなの面倒を見るのが当たり前で、あんなふうにうれしげに誰かになつく様など見たことはなかった。
真菰に実の姉妹であるかのごとくに甘え、手伝いを喜びいさむ禰豆子を見るのも、今夜をかぎりに、しばらくはおあずけだ。
このまま、ここに残していくほうがいいのかも。ちらりと思いもしたが、禰豆子を置いて旅立つなどできそうにない。
鱗滝と真菰への信頼は深くとも、離れたくないのだ。いつかの雪の日のように、自分の知らぬ間に大切な笑顔が消えるのは、二度とごめんだ。
万が一のときの、責めも悲しみも、自分で負いたい。誰にも背負わせたくなかった、なにもかも。
信じているからこそ、なおさらに。
「禰豆子、ちょっと行ってくるな。ちゃんと真菰のお手伝いするんだぞ」
「むぅむぅ!」
「いつもお手伝いできてるもんねー、ねっ、禰豆子ちゃん」
「むぅっ」
楽しげな真菰と禰豆子に、ちょっとばかり呆れを含んだ苦笑を浮かべ、錆兎が炭治郎に向かいひらひらと手を振った。
「ホラ、さっさと行け。師を待たせるなど百年早いぞ」
「はいっ、すみません! 義勇さん、行ってきます!」
房の入り口に立ち尽くしたままの義勇に笑いかければ、義勇はなんの感慨も見られぬ顔で炭治郎を見下ろし、それでも小さくうなずいてくれた。
今はそれだけでもいい。いつか、笑い返してほしいけれど。その日を迎えるためにも、炭治郎は立ち止まるわけにはいかないのだ。
鱗滝の後を追って炭治郎は走る。面で見えない鱗滝の顔は、それでも笑んでいるように見えた。
鱗滝に付き従い炭治郎が向かったのは、鱗滝の自室だ。希少な薬草などがしまい込まれた房は、いつもながら不思議な匂いで満ちている。
「炭治郎、よく試験に合格した。思いがけず卑劣な鬼と対峙することになったのは、こちらの不備だ。すまなかった。判断を誤ることなく、よく切り抜けたものだ。義勇にも、相打ちとはいえ一矢報いるとは……正直、負けずに耐え抜ければ上々と思っていたんだが、おまえは儂が思うよりもずっと機転がきく。見誤っていたのは儂のほうかもしれんな」
「そんなっ、鱗滝老師が鍛錬してくれなければ、なにもできやしませんでした。全部、鱗滝老師や真菰、それに錆兎と……義勇さんのおかげです」
義勇の名だけは、無意識に頬を染め噛みしめるような声音になった炭治郎に、鱗滝は面の下で苦笑したようだ。
「さて、旅立つにしても、そのままというわけにはいかんだろう。儂と真菰からの餞だ」
ひらりと鱗滝が袖を振ると、炭治郎の目の前にドサリと布地の束が落ちてきた。あわてて受け止めたそれを広げてみれば。
「これ……あ、あのっ、こんな高そうな服もらえませんよ! このままで充分です!」
黒地に臙脂で青海波が描かれた長衫(ちょうさん)、襖(おう)は深い緑で、金銀の流水紋があしらわれていた。外套は襖より淡い緑だ。裾にいくにしたがい色味は濃くなり、地の色と黒の方格花紋(市松模様)となっている。
貧しい暮らしのなかではとうてい手にすることもなかった、なめらかな絹の手触り。仕立ての良さが炭治郎にだってわかる。
今着ている短袍と袴褶(ズボン)だって、以前の暮らしからすれば、充分に値の張る代物なのだと思う。動きやすさも丈夫さも、段違いだ。これまでも恐縮しきりだったというのに、もったいないにもほどがある。
あわてる炭治郎に、鱗滝はいかにも呆れたと言わんばかりのため息をついた。
「馬鹿者。値の高い安いなど関係あるか。おまえが相手にするのは鬼だぞ。巷間に出回る品で、とうてい体を守れるものか。それはな、義勇や錆兎のものと同じく、破邪の呪をほどこしてある。だいいち、今の服では二人の家生(下男)に見られるのが落ちだろうが。場合によっては、他領の王宮へ赴くこともあるだろう。礼節を備えぬ服では、義勇の感情の破片を探すこともままならんぞ」
諭す口調に、思わず炭治郎は首をすくめた。まさか、衣服一つにそんな意味があろうとは。
「えっと……それじゃ、ありがたくいただきます。ありがとうございます! この服に恥じぬ働きをします!」
「うむ。それと」
うなずいた鱗滝が両手を炭治郎に向かって差し伸べ、パンッと柏手を打った。ビクンと肩を跳ねさせた炭治郎の前で、ゆっくりと鱗滝が両手を広げるに従い、手のあいだに現れいでたのは、一振りの刀である。
「炭治郎、この刀を受け取ったが最後、もう後戻りはできんぞ。義勇たちと同じく、おまえは茨の道を歩むこととなる。不退転の覚悟があるならば、受け取るがよい」
漆黒の鞘に収められた刀をグイッと差し出す鱗滝の視線は、面に隠されていても強い。嘘偽りなど許さぬ見極めの眼差しを、炭治郎は、まっすぐ受け止めしっかとうなずいた。
「はい。けっして、鬼の……鬼舞辻無惨の非道を俺は許しません。必ず禰豆子を人に戻し、義勇さんの感情を取り返して――鬼舞辻無惨を討ちます」
重々しくうなずき返した鱗滝の手から、刀を受け取る。それは、試験の前に渡された刀よりもずしりと重く感じた。
実際の重量は、おそらくは試験用の刀と大差はないだろう。感じるのはきっと、覚悟の重みだ。
「さぁ、着てみるがいい。みな、腹をすかせて待っているぞ」
「は、はい!」
先に行くと房を出た鱗滝を見送り、炭治郎は、ゴクリと喉を鳴らすと恐る恐る長衫に袖を通した。
未来永劫への願いを込めた青海波。繁栄を祈る方格花紋。鱗滝と真菰からの心づくしは、炭治郎の無事と願いの成就を祈ってくれている。
「がんばらなきゃ……絶対に無惨を討ち取るんだ」
義勇たちと同じ波濤ではないのは、以前に鱗滝から聞かされた、炭治郎の生まれと水の呼吸との相性ゆえだろう。
炭治郎は窯場の子、火の家の生まれだ。炭治郎に波濤は強すぎ、招福を打ち消すかもしれないと、苦笑いされたのを覚えている。