天空天河 四
八 誉王府 その二
帰りは、案内の従者はいなかった。
長蘇は振り返らずに、ゆっくりと歩いていく。
多少、ふらつきはするが、確かな足取りだった。
──血の巡りが良くなるのか、夜気の冷たさを感じない。体も熱い。
鼓動の強さも感じる。
蘇宅にいる藺晨が診たら、驚くだろうな。
、、まずは、、、一難が去った。──
誉王府の回廊に風が颭(そよ)ぎ、長蘇の髪を弄んでいった。
長蘇は風が、心地良いと思った。
夜の湿りを含んだ風にあたり、寒いと思わずに済むのは、いつ以来か。この体を得てからは、一度もない。
顔に掛かった髪を、指で梳き整え、胸元を閉じて、誉王府の門の方へと、歩き出した。
一方、部屋に残された誉王は、何処か一点を見つめ、心が定まらぬ様子だった。
==何が違ったのだ?。
私は今まで、何を求めて、奔走していたのだ。
帝位??、、、違う、、、、。
考えてみれば、私は帝位なぞ、端(はな)から、どうでも良かったのだ。
私が帝位を望んだら、義母上が喜んだから、、。
景宣を出し抜いて、雄弁に語れば、父上が頷いていた。
ただ、二人の喜ぶ顔が見たかった。
たが、二人は、私なぞは見ちゃいなかった。
義母上は、皇后としての威厳を保つ道具として、
父上は、景宣と越貴妃の力を、抑える道具として。
私は何なのだ。
私は一体、何者なのだ。
そして私が望む事は、何なのだ。
『愛』だと???。
落ちぶれたこの私を、誰が愛していると?。
義母上から、「勝手に王府から離れぬように」と、従者達は、言い含められていた筈だが。誉王府の従者や侍女は、蜘蛛の子を散らすように、居なくなった。
残っている者は、皇后に恩の有る者達た。
誉王妃とて、数日前に、実家が迎えに来て、王妃が朱家に戻る事を、私も承諾した。
義母上からは、「暫く参内せぬ様に」と、、。
、、、、惨めなものだ。==
がらんとして、静まり返った誉王府。
嘗ては、決して賑やかではなかったが、従者や侍女の気配はしていて、そして静黙だった。
今は、それが嘘のように、寂しい程の静の世界。
『静の恐怖』の様なものを、誉王は感じていた。
ざわざわと、風が揺らす木々の音、そして『静』の闇が、誉王を包む。
到底、心地良いとは思えなかった。
この世に一人、取り残される様な、恐怖に襲われた。
誉王は居所を出る。
暗い誉王府の回廊を、歩いていると、奥に仄明るい部屋が見えた。
==王妃の居所ではないか?。
王妃は、朱家に戻った筈だが?。
、、、、何故灯りが?。
まさか、、王妃の部屋で、従者共が悪さを?。
、、、、、許せぬ。==
もう、『誉王妃は戻らない』と、諦めてはいた。
きっと朱家から、離縁状を催促されるのだと、誉王は思っていた。
今は主無き部屋だが、従者共に、誉王妃の居所が荒らされるのは、許せなかった。
誉王妃として、朱家の令嬢、朱藍瑾が嫁いできた。
無論、誉王は望んだ通りの妻を、娶れるとは思っていなかったが。
案の定、皇后の好みで、誉王の将来を見据え、皇后や誉王の助けになる家柄が選ばれた。
政治的な婚姻だった。
誉王を決める為、家柄の良い令嬢が、候補に上がり、令嬢が皇后の元に集まった。
誉王妃選びは、皇后に任せた。
『少しでも見目の良い者ならば、政治的な婚姻でも、大事にしてやろう』と、そう思っていた。誉王は、少し気が強い位の女子が好みだった。
ところが、皇后の選んだ朱家の令嬢は、華があるとは言い難く、大人しく控え目な女子だった。
気の強い皇后は、大人しく従順な藍瑾が、気に入ったのだろう。
朱藍瑾は穏やかな性格で、決して波風を立てなかった。
誉王は、政務に託(かこつ)け、滑族の女策士を出入りさせ、朱藍瑾を省みなかった。誉王は控え目な藍瑾より、滑族の秦般若と過ごす方が楽しく、藍瑾を蔑(ないがし)ろにした。
正妻を蔑ろにした二人に、怒るどころか、朱藍瑾は、秦般若を『誉王の特別な者』と、嫉妬をせず丁重に扱った。
文句一つさえ、零さぬ王妃。
正妻の鑑である、と、賛辞した。
だが、誉王と秦般若は、言わない事は即ち、二人の関係を許したのだと。誉王との策士は、王妃の事を『意気地が無い』と、陰で嘲笑(せせらわら)っていたのだ。
二人は、都合の良いように、王妃の事を受け取った。
==私は王妃に、、何と酷い事を、、。
恨まれても仕方が無い。
藍瑾は私を許すまい。
実家に戻ったのは、至極当然。非は私にある。==。
王妃の部屋の前まで来ると、中では女子の声が聞こえた。
==侍女達が?、なんと大胆な。
主の部屋で、何をしているのだ。==
勢いよく、誉王が扉を開けた。
「きゃっ!!。」
中の者達が、驚いて声を上げた。
「!!!。」
だが、その中の様子に驚いたのは、誉王の方だった。
「王妃??!!。
一体、何を、、、。」
「ぁぁ、、驚いた、、。」
誉王妃は、酷く驚いた様子で、胸を押さえ深く呼吸をして、鼓動を整えようとしていた。
そして誉王に、軽く膝を下ろし、礼をとった。
「お客様はお帰りに?。
酔い醒ましを用意していました。お持ちしましょう。」
部屋に一人だけいる、侍女が動いた。
「よい、要らぬ。
、、、、王妃?、実家に戻った筈では?。
朱家から、そなたの里帰りの申し出を受け、許したのだ。」
すると誉王妃は答えた。
「何故、実家に?。殿下に離縁されぬ限り、私は戻りませんよ。
私の家は、この誉王府ですもの。」
悪戯っ子の様に、はにかむ誉王妃。
その笑顔を眩しく思った。
==華もなく弱々しく、何の取り柄も無い女子だと、ずっと思っていた。
誉王妃は、芯の強い女子だった。
私は上部だけしか見ずに、蔑んでいたのだ。
私は何と愚かなのだ。
百戦錬磨に見える、抱き込んだ朝臣達や、闇炮坊の暴発を唆した秦般若でさえ、鳴りを潜めて、この誉王府に寄り付かぬというのに。==
様々な記憶が蘇り、誉王妃の心を詳(つまび)らかにした。
例えば酒を飲んだ日には、必ず王妃付きの侍女が、酔い醒ましを運んできた。どんなに遅い時間でも、必ず届けられた。今夜の事を見ても、おそらくは、誉王妃が作っていたのだろう。
その他にも、些細な事柄が、心を過(よぎ)った。
何もかも、誉王の為に、王妃は心を尽くしていたのだ。
==藍瑾は、真の私の家族だったのだ。==
『家族』と言う言葉に、誉王の心の乾きが、潤っていった。
どれ程、希少な書や希石、美女など求めようと、手に入れようと、決して満たされなかった誉王の心の器が、誉王妃の優しさで満たされた。
歳月を経る毎に、この器は貪欲になり、大きく、そして異形を成していった。
殊更、歪(いびつ)な形の部分が有り。
それはまるで、誉王の隠した心の様な。
どんな喜びが器に注がれようとも、その部分に入る事は無かったのだ。
だが、その部分にも、誉王妃の優しさは染み渡り、誉王の器から、溢れ出していた。
誉王は王妃に歩み寄り、肩を寄せた。
「、、藍瑾、、、私はそなたに、これ迄、、。」