天空天河 四
幕間 2 風
━━、、、、、静かになった。━━
蘇宅の書房に繋がる、隠し部屋で、靖王は聞き耳を立てていた。
靖王は、隠し部屋の扉の前で、長蘇の気配を感じていたが、一時(いっとき)騒がしくなり、そして気配が消えた。
━━何処かへ出かけたのか?。
、、、、、、、あの『藺晨』と?。━━
靖王の喉元に、熱い怒りのようなものが、込み上げる。
靖王は、頭では分かっているが、正直、堪らなかった。
長蘇にも、『長蘇の付き合い』、というものがあるのだろう。
仮にも江湖の一大勢力、江左盟の宗主なのだ。
長蘇の交友範囲など、靖王に分からなくて当然。
━━何故、こんな気持ちになるのだ。
陛下に疎まれようと、配下の裏切りがあっても、これ程の気持ちにはならなかったのに、、、今更、何故?。
、、、、、酷く寂しい。
十年以上、小殊と離れていても、こんな寂しさが、湧き出ることは無かった。
今はこれ程、近くにいるというのに、これ程、寂しさを感じる。
、、、そして怒りすら、、。━━
原因は分かっていた。
『藺晨』の、長蘇に対する馴れ馴れしさ。
そして、それを許している、長蘇にも腹が立っていた。
━━、、、、、、、『嫉妬』、、。
『嫉妬』、なのか??、これが、、、。
何て私は、みっともない。━━
靖王は、十七の年まで後宮で暮らし、『嫉妬』を知らない訳ではなかった。
皇帝の妃嬪の、あからさまな嫉妬。
当時の靖王親子は、後宮内では地位が低く、害をなさぬ者と思われていた様で、明け透けな感情を、ぶつけられたり、見せつけられたり。
━━私は今、あの意地の悪い妃嬪達の様な、顔をしている?、のか??。━━
嫉妬深い妃嬪の、あの歪んだ表情は、忘れることが出来ない。
靖王の脳裏に焼き付いて、今でも離れない。
今日も、蘇宅の書房への扉に、鍵は掛かっていない。
靖王はその扉を開き、ゆっくりと長蘇の書房へと、入っていった。
蘇宅の書房に漂う、薬の匂い。
━━小殊に薬の匂いなぞ、無縁だったのに、、。
今はこういった薬が、手放せぬという、、。
十年の間に、一体、何があったのか、、、。━━
靖王がこの事が、気にならぬ筈が無い。
だが、長蘇から話すまでは、決して聞くまいと決めていた。
誰も居ない、静かな長蘇の書房。
書が山と積まれている。
林殊は、小さな頃から落ち着きが無く、とてもじっと書など読む性格では無いと、周囲には思われていたが、ある時期を過ぎると、憑かれた様に没頭して、書を読み漁った。
靖王が珍しい書を手に入れると、早々に林殊に持ち去られたのだ。
林殊の部屋も、蘇宅の書房の様に、書が山と積まれていた。
靖王は、誰も居ないこの書房に来ては、林殊の痕跡を探すのだ。
━━容姿は変わり、部屋の間取りや、家具の配置は違えども、この書の整理の仕方等は、小殊そのものだ。━━
薬の匂いが強いものの、何物でもない、林殊の匂いが、そこかしこに漂っている。
ぶらぶらと、誰も居ない書房を見て回った。
前に来た時と、何か変化は無いか。
増えた物や減った物など。
机の上が、少し乱れていた。
書きかけの手紙か何かが、机の側の床に。
机の側まで行って、確かめた。
手紙の字は、当然、長蘇のものでは無い。
━━徹底した偽装なのか?。
小殊が私に寄こす手紙には、かつての文字の面影も無い。力強い小殊の字とは、まるで違う、流暢な文人の文字だ。(力が出ずに、もう書けなくなったとは、思い当たらない)
、、、、だが、この手紙の字は、梅長蘇のものでは無い。
内容からして、、、、。━━
ふと、机の上に目をやれば、細い線で流れるように描かれた、梅長蘇の姿。
「うっ、、。」
靖王は、息が止まるかと思った。
その美しさ。
梅長蘇の息遣いまで、聞こえてくるような、瑞々しい姿。
さらさらと描かれた姿は、とても自然な姿勢で、無理がなく、華やかでは無いが、艶やかだ。
靖王には、書画の善し悪しは、良く分からないが、この絵が、作者の心の込められた物で、良い物なのが一目で分かった。
床に置いてある手紙の内容から、手紙の主は、藺晨だろうと、思われた。
━━と、言うことは、この姿絵は藺晨が。━━
絵の中の梅長蘇は、どこか愁いを含み、苛烈な運命に抗う、林殊そのものの姿と思え、俯き加減の長蘇は、視線の先の胡蝶の命さえ惜しむ、情の深さが感じられた。
そこに一陣の風が。
長蘇の姿絵は、風でふわりと、机上から舞い上がる。
「ぁぁ、、。」
靖王の反応は早かった。
風に机の上から浮かされた所で、靖王の手が、姿絵を捉えた。
机の後ろの窓は、開け放たれていて、靖王が姿絵を掴まねば、外に飛んでいった事だろう。
安心したのも、靖王にとっては、それは束の間だった。
姿絵を、見れば見る程に、林殊を思い出し、靖王の心は切なくなり、温かくなる。
━━この眼差し、私が心に想う、小殊そのものでは無いか。━━
姿絵は、永遠に眺めていられて、そして手離したく無くなった。
漸く、金陵に戻ったというのに、何故かこの幼馴染は素っ気なく、靖王にさえ、正体を明かさず、積極的に会おうとはせず、長蘇が起こしている謀の端でさえ、話そうとはしない。
━━挙句の果てに、藺晨に、こんな姿絵まで描かせて、、、、。
、、、小殊の事が、分からない、、、。
小殊、、十年も離れている間に、私が嫌になったのか?!。━━
「、、、、こんな物、、、没収だ。」
靖王が呟いた。
怒りの気持ちを、言葉にしてしまえば、行動もしやすくなり、、。
「こんな物が、他の者の目に触れたりしたら、大変な事になる。
描かれた者を、探す輩が出てくるだろう。
そんな事になったら、、、小殊の正体や、折角、時間をかけた謀が、無に帰するとも限らぬ。」
自分に言い聞かせるように、靖王が呟く。
理由など、いくらでも付けられた。
「本当は没収なぞ、私は、したくは無いのだ。
、、、そうだ、私かこの絵を没収するのは、何より、小殊の為なのだ。」
靖王は、何のかんのと、持ち去る理由を並べたが、大義さえ有れば、どんな事をしても正しいのだ。
『この姿絵を、持ち去る事こそが大義』と考えて、靖王は、持ち去る事を正当化した。
靖王は、持っている長蘇の姿絵を、丁寧にくるくると巻いた。
そして足早に、靖王府へと戻るべく、蜜道の入口へと向かう。
『自分は林殊などでは無い!』と、強く否定され続けているので、靖王は、長蘇が居る時には、出入りする事が憚(はばか)られていた。
それでも靖王は、長蘇の中の林殊を感じたくて、留守の折、黙って忍び込む。
そして、悪戯っ子の様に、何かを動かして帰るのだ。
例えば、山のように積まれた書の、一番上の書を、ほんの爪の先程、ずらしたり、または、机の上の筆の位置を、やはり爪の先程、、、。
こっそりと忍び込むが、自分が来た事は知っていて欲しい。
━━小殊は、粗暴でいい加減に見えて、その実、恐ろしい程に、緻密で神経質な男だった。