後朝(きぬぎぬ)
無惨のリムジンは、紫外線を遮るスモークガラスで、居住性にも優れている。運転手は早朝だろうが真夜中だろうが、いきなり呼びつけられようと文句ひとつ言わない。今は初秋で、ダウンジャケットなど着ていればあっという間に汗だくになるだろう。不審者扱いされてもしかたないぐらいのいでたちとなること請け合いだ。
だが、無惨はそれらを着込んだ。眉間に盛大なシワを刻みつつではあったけれど。
「今日はバイトは休みだったな? 大学まで迎えに行く」
「自転車をどうしろと。置いていけないと言ってるだろうが。おまえ、意外と物覚え悪いんだな」
「電車で私と一緒に行けばいいだろう!」
不満そうに少し唇を尖らせるから、ハァッとため息をついて、無惨は舌打ちをこらえて義勇の耳に唇を寄せた。
「……電車など乗ったことがない。会社まで貴様が案内しろ」
キョトンとした義勇がクスクスと笑いだしたのに、フンと鼻を鳴らして、無惨は胸のうちでニンマリと笑う。日ごろそんなものを使う必要がないのは確かだが、いくらなんでも電車ぐらい一度や二度は乗ったことがある。恥をかき汗もかくなら、せめてそれぐらいのメリットがなければやってられない。
「しかたない。連れて行ってやる」
どこか楽しげに、子供のように義勇は笑う。思ったとおり、義勇は頼られると甘くなるようだ。家族は姉一人というから、甘えられることに弱いのだろう。年下の少女などに目が向く前に、しっかりと繋ぎとめておかねば。そのためならば、少しぐらいは甘えるそぶりをみせてやってもいい。甘やかすのはその後だ。
礼だと、ちょんと触れるだけのキスをすれば、また義勇は顔を真っ赤に顔を染めた。いずれは義勇のほうから素直に甘えてくるようにしてやる。無惨の決意は固く、その日が楽しみでならない。
後朝の別れと言うには俗に過ぎる、しめやかさなど微塵もない朝。無惨にとって人生最良の夜は、そんな具合に幕を閉じた。
振りまわされ、苛立ちや不満をせいぜい抱えながらも跪き、愛を乞う日々の幕開けとともに。