後朝(きぬぎぬ)
たしかに無惨は、自分でも信じられぬほどの慎重さで義勇の体を暴いたし、痛みなどほとんど与えぬように抱いた。けれども、それにしたってこの反応はない。
痛い、体が動かないと拗ねたのなら、全部私がしてやろうと甘やかしてやってもよかった。恥らう様はぜひとも見たかった。なのに、義勇にはまるっきり動じた様子などなく、動きも職場で見る機敏さのままだ。
「さっさと服を着て飯を食え。おまえ、仕事があるんだろう?」
小さなローテーブルにトーストと牛乳だけの質素な朝食が用意され、素っ気ない声がかけられるにいたって、ようやく無惨の思考は活動を再開した。瞬時に脳裏を占めたのは、不満と怒りだ。そして、隠しようのない不安が少し。
「おい……」
「なんだ」
のそりと起き上がり義勇をにらみつける。義勇は無惨に背を向け座っている。振り返りもしない。
「私は何人目だ?」
誘いは義勇からだった。けれど、口づけに応える舌はぎこちなく、戸惑いが露わだった。息継ぎひとつうまくできず、ハァハァと息を荒げて涙目で睨みつける様に、たとえようもない興奮を覚えたのだから、間違いない。
そっと触れた小さな蕾も固く閉じて、誰かの手でやさしく花開かされたことなど一度もないことを、無惨に知らせていた。快感を得ることすらうまくできずにいるのを、丁寧に、極限までの慎重さでもって、時間をかけて教えてやったのは私だ。無惨はそう信じていた。その事実に恍惚としてさえいたのだ。
だが、目覚めてからの義勇の態度は、初めて男に抱かれた朝のものではない。慣れている。そう言わんばかりだ。
無惨は処女性になど頓着したことはない。だが、義勇だけは別だ。義勇が見せた健気な恥じらいも、陶然とした愉悦の瞳も、すべてほかの誰かの目に触れたのだと思うだけで、はらわたが煮えくり返る。憤怒はマグマのように体中を巡り、義勇の肌に触れた者すべてを焼き尽くすまで治まりそうにない。
「は?」
なにを問われているのかさっぱりわからない。義勇が口にした一音は、そう告げていた。思わずというふうに振り返った顔も、キョトンとしている。
視線が合った瞬間、パチリとひとつまばたいた義勇は、パッと顔をそらせた。無惨の顔など見たくもないとでもいうかのように。
その仕草と沈黙に、無惨の怒りは即座に頂点に達した。ベッドから降り、乱暴に義勇の肩をつかむと力まかせに振り返らせる。
「正直に言え。私の前に何人咥えこん、だ」
腹立ちのままに告げた声は、それきり続けられなくなった。
振り返り無惨を見上げた義勇の顔は、淡く紅潮していた。よく見ればローテーブルの上で握りしめられている手も、小さく震えている。無惨の顔を映しだした瞳が丸く見開かれ、パチリとまたまばたいたと同時に、頬の赤味がさぁっと増していく。
「な、なにを言いたいのかわからん! わかるように言え! い、いや、それより先に服を着ろっ! ばかっ!」
上ずる声と、そらされた視線。顔はいよいよ赤い。
これは、まさか。ゴクリと無惨の喉が鳴る。
「……貴様、照れているのか」
「うるさいっ。いいからさっさと服を着て飯を食えっ」
かたくなに目をあわせようとしない義勇は、それでも無惨の手を振り払わない。肩をすくませ縮こまるようにしていながらも、触れる手を、拒んではいない。
怒りはたちまち霧散して、込み上げたのはどうしようもなく凶暴な愛しさだ。このままベッドに引きずり戻して、メチャクチャにしてやりたい。どこまでもやさしく、どこまでも深くやわらかく、慈しんでやりたい。相反する願望は、それでいてどちらも同じものだ。愛おしい。ただそれだけが、無惨を残酷なほどに支配する。
こんな自分を無惨は知らない。一度として感じたことのない感情は、無惨のアイデンティティさえも揺るがす。自分のなかにこれほどまで他者を慈しみ愛する心が存在することすらが恐ろしい。
無惨は王様だ。冷酷無比な暴君だ。誰もがそれを疑わず、無惨自身、いっそそれが心地よくすらあった。
だというのに、こんな野良猫のごとき一介の苦学生ひとりに、これほどまでに溺れている。囚われている。愛している、なんて。そんな世迷いごとを恥ずかしげもなく口にして、膝を屈し愛を乞うてしまいそうなほどに。
「義勇……」
「おい、いい加減言うことを聞け。服を着て、飯を食え。おまえ、今日も仕事だろうが」
抑えきれぬ感情に突き動かされて口づけようと寄せた顔は、無慈悲な手のひらに躊躇なく押しやられた。
苛立ちが恥じらいを凌駕したらしい。義勇の顔はもういつもの白さを取り戻し、眉間には不快感を告げるシワがくっきりと刻まれている。
あぁ、本当に、厄介で、手ごわい。
「仕事などどうでもいいだろうが。素直にキスぐらいさせろ」
「フルチンで偉そうにするな。恥じらいってもんがないのか、おまえは」
「ふん、見られて恥じるほど粗末ではないからな。貴様も気に入っただろう?」
ニヤリと笑って言ってやれば、絶句しハクハクと唇を慄かせた義勇の顔は、また咲き誇るバラの色に染まった。
「ふざけるなっ! 誰が気に入るかっ、この遅漏!」
「誰がだっ! 貴様がつらそうだからゆっくり抱いてやったというのに! 気持ちいい、もっととねだったのは貴様のほうだろうが!」
「そ、そんなこと言ってない! 言えるわけないだろうっ、ずっとキスしてたし!」
「言わずともわかるに決まっているだろうが、馬鹿め! 場数が違う!」
「最低なことを偉そうに言うな! ……初めてで、悪かったなっ!」
「悪いわけがないだろう! 私以外に貴様を抱いた男がいたら、生きていることを後悔する目に遭わせるぞ! 貴様は抱きつぶす!」
「は? ば、馬鹿かっ! そんな奴いるわけないだろう! 抱きつぶすってなんだ! やめろっ、あれぐらいで十分だ!」
ダンッ! と、壁が叩かれなければ、多分、口論はつづいたことだろう。口論なんだか睦言なんだかもはやよくわからなかったが。いや、もしかしたら、隣の住人のやっかみがなくとも、口は言葉をつむぐ以外のことに使われたかもしれない。言い聞かせるより行動に移すほうが手っ取り早いと、思い定める寸前のことであったので。
仕事をさぼるなとかたくなに言う生真面目な義勇に、不承不承したがって、差し向かいに座りモソモソと二人で質素な朝食を食べた。もちろん、服は着て。
窓の外は上天気だ。無惨の体を痛めつける忌々しい太陽が、我が物顔で照っている。だが電話一本で運転手はリムジンをアパートに乗りつけるだろうし、不都合はない。そう無惨は思っていたが、義勇の行動はどこまでも無惨の理解の範疇を超えていた。
フード付きのダウンジャケットを着ろと押しつけてきたばかりか、マフラーだマスクだ手袋だと、いったいおまえは今何月だと思っているんだと言わんばかりの防寒具を、さも当然といった顔をして無惨によこしてくる。
「それぐらい着こめば日に当たらずに済むだろう? 駅まで送る」
言って自分は薄手のパーカーに袖を通す義勇は、この場で別れることなどきっと微塵も考えていない。当たり前のように、昨夜と同じく無惨を自転車の後ろに乗せる気満々だ。