青い炎
会釈とともに廊下を足早に立ち去る背中を見送る暇もあらばこそ、煉獄は急ぎ部屋に戻った。
頭痛がするようなら大きな音を立ててはつらいだろう。憂慮に気は急くが、静かに襖を開く。彼はまだ、同じ体勢で座り込んだままだった。
「隣の部屋に布団が敷いてあるそうだ。立てるか?」
穏やかな声で問いかければ、彼の顔がゆるゆると上げられた。山中での目を見張る剣技と体捌きが嘘のように、彼の体は頼りなく震えている。白かった頬はすでに真っ赤だ。
それでも彼は、差し伸べた煉獄の手にすがることなく、自力で立ち上がろうとした。
「危ないっ! 無理はしないほうがいい」
たちまちよろけ、崩れ落ちそうになった彼を、煉獄はとっさに抱きとめた。背丈は煉獄とさほど変わらないが、彼の体はひどく軽く感じられた。
「……すまない」
「謝る必要はない。こんなときはお互いさまだ。気は進まんだろうが、ちょっと我慢してくれ」
胸元に吐きかかる彼の息も、すがる手も、不安をかき立てられるほどに熱い。煉獄はためらわず彼を横抱きに抱え上げた。
彼は体を硬直させたが、すでに隣の部屋に続く襖に向かっている煉獄に、下ろせとは言わなかった。距離にすればたった数歩だ。揉めるだけ無駄だと判断したのだろう。山を降りるときも、戦闘中でもそうだったが、彼は決断を下すのが早い。この場合は、具合の悪さゆえの諦めかもしれないが。
行儀は悪いがと頭の片隅でちらりと思いつつ、襖を足で蹴り開ければ、並んで敷かれた二組の布団が目に入った。
そっと横たえられた彼は、一度だけ煉獄に瞳を向けた。間近に見た彼の瞳は、熱に潤んでいる。焦点のあわぬ濡れた瞳と赤く染まった頬に、煉獄の鼓動がドキリと跳ねた。
「……眠るといい。そばにいる」
騒ぐ鼓動を抑え、煉獄は静かに言った。彼のまぶたがゆっくりとふせられる。すぐに彼は眠りに落ちたようだ。
布団をかけ直してやり、煉獄は、ひたいに伸ばしかけた手を一瞬躊躇し、彼の頬へと触れた。
赤みに違わず、彼の頬は煉獄の手よりもずいぶんと熱い。一晩で下がればいいが、よしんば朝になっても熱が下がらぬようであれば、蝶屋敷へと使いを出したほうがいいだろうか。浅い呼吸と肌の熱さに、煉獄は深く吐息した。
長い夜になるかもしれない。閉じられ今は見えない彼の瞳の色を思い浮かべて、煉獄は、そろりと彼の頬をなでた。
嵐はまだやまない。
家人から受け取った新しい手ぬぐいをギュッと絞り、煉獄は、彼のひたいにそっと乗せた。
手ぬぐいを濡らすのはもう何度目だろう。彼の熱はまだ引きそうにない。
ガタガタと布団のなかで震え、幾度も寝返りを打つから、手ぬぐいはすぐに落ちる。まずは体を温めるのが肝心と、湯たんぽを布団に入れてやったが、それでも彼の悪寒は止まらないようだ。
雨音はまだまだ強く、夜明けまでは今しばらくあった。
そろそろ汗をかき、熱が下がりだしてもいい頃合いだと思うのだが。
火鉢で燃える炭とかけられたヤカンがシュンシュンとたてる湯気で、室内はだいぶ暖まっている。湯たんぽもまだ冷めてはいないはずだ。だが、彼にはまだ足りないのかもしれない。
逡巡は、数秒だった。
「すまん」
彼の耳には入っていないのは明白だ。それでも知らず詫びながら、煉獄はそっと彼の布団に自身を横たえた。
ギュッと抱きしめれば、意識のないまま彼は、温もりを求めてか煉獄の胸にすがってくる。いとけない仕草に、なぜだか胸が詰まった。
しばらくすると、ハァハァと荒い彼の呼吸を続けていた彼が、不意に小さくうなった。
「ん……ぁ……ない、で」
うなされだした彼のひたいに、漆黒の髪が張り付いている。汗をかき出した。ここまでくれば、一安心だ。汗とともに熱も引いてくるだろう。
安堵に煉獄は腕の力をわずかにゆるめたが、それでも、彼のうなされようは気がかりだ。
意識のないうちならばいいだろうかと、少しのためらいとともにひたいの汗をぬぐった煉獄の手が、止まった。
「……め、だ……さび……いかな……で」
とぎれとぎれに紡がれた声音は、いかにも苦しげだ。閉じた目尻から、ひとすじ、涙が落ちた。
ふせられた長いまつ毛の端で、小さな涙の粒がキラリと光る。熱に浮かされたうわ言の意味は、煉獄にはわからない。けれど、彼の涙に煉獄の心臓は、いまだかつてない痛みを覚えていた。
前髪をそろりとかきあげれば、傷痕が先よりもはっきりと浮かび上がっているのが見えた。
行かないで。彼はそう言った。誰を呼んでいるのだろう。彼を置いていった者は、彼にとってどのような人物だったのか。考えたってしかたのないことなのに、なぜだかやけにそればかりが気にかかる。
煉獄は、そっと傷痕に指先で触れた。この傷を負ったとき、彼は、もう鬼狩りだったのだろうか。それとも、この傷が元で鬼狩りへの道を進むに至ったのか。それすら、煉獄は知らない。
彼が涙ながらに苦しげに呼ぶ者は、彼をおいて行ってしまったのか、それとも……逝ってしまったのか。
なにも、煉獄は知らない。わからない。
わかっているのは、彼の涙を見るのは胸がかきむしられるほどに苦しく、切ない想いがするということだけだ。
灼熱の炎の青でも、星月夜の青でもいい。閉じた目から流れる涙ではなく、あの青が見たい。また、彼の青い瞳に見つめられたい。笑ったときの瞳の色を見られるのなら重畳。いつか、そんな日がくればいいと、不思議と思う。
「大丈夫だ……俺がいる。俺が、君のそばにいる。だから、もう泣かないでくれ。そばに、いるから」
ささやきは、煉獄自身の耳にもやさしくひびいた。幾度も煉獄はささやきかける。やさしく、力強く。祈るように。誓うように。
次第に穏やかになっていく彼の息遣いに、やわらかくほどけていく眉根に、胸にこみ上げる熱い塊は、いったいなんだろう。なぜ自分は、これほどまで強く、彼のそばにいたいと願っているのだろう。
わからないことばかりだ。彼のことも、自分のことも。けれどもいつか。煉獄は胸に強く誓う。
炎と水、一対の呼吸。いつか、自分が炎柱を継ぐ日が来たのなら。そのときには、ちゃんと彼の目を見て約束しよう。俺がいる。そばにいると。
そのときには、きっと彼も水柱になっているに違いない。彼の剣は、それだけの力があった。
いつか。いつか必ず、彼と肩を並べて笑う日が来る。そのときには、きっと。
雨は、いつのまにかやんでいた。
穏やかになった彼の寝息に安心したのだろう。いつのまにか眠りに落ちていた煉獄が、目覚めたとき、彼はすでにいなかった。
布団を抜け出す気配すら感じ取れぬとは、煉獄も疲労していたとはいえ、やはり彼は只者ではない。目覚めて一人きりだと気づいたときには、ここ数年感じたことのない驚愕に、唖然としたものだ。
「けっきょく、彼の名も知らずじまいか」
嵐のあとの晴れ渡った空を見上げ、煉獄は苦笑する。
残念だが、しかたない。昨夜、彼の涙へと誓った言葉は、しっかりと煉獄の胸に刻みこまれている。炎柱襲名を目指し、変わらず努力精進を続けていれば、いつかは必ず彼に再会する日もくるだろう。
「そのときには、笑ってくれるといいがな」