いのちみじかし 前編
「よし、なら出てみよう!」
子供のように手をつないだまま、そろって日差しのもとへと足を踏み出す。
階下の広い展望台と違い、最上階に設えられているものは周り廊下とさして変わらぬ幅しかなく、人がひしめきあっている。幼いころも、大人たちに押され姉の手を離さぬように必死になったものだが、体格のいい二人連れが手をつないで楽しむには、どうにも狭苦しい。だが煉獄はとくに気にした様子もなかった。
「おぉ! まさに千里の展望だな! 上天気でよかった、十二階もいっそう間近に見える。下から見上げただけでも目を回しそうに高いが、こうして見ると、雲を凌ぐとの名称が伊達ではないのがよくわかるな!」
青空を貫かんとばかりにそびえ立つ赤煉瓦の塔に、煉獄は至極満足げだ。子供みたいだとまた思う。
「十二階は?」
「階下で任務にあたったことはあるが、登ったことはないな」
言葉足らずな問いにも戸惑うことなく、快活に答えた煉獄に、義勇もコクリとうなずいた。
「いつかあれにも登ってみるとしよう。五階でさえこの見晴らしだ、十二階ともなれば、世界を一望するような素晴らしい眺めだろう!」
そのときには、煉獄は誰と手をつなぐのだろう。思いつつキュッと手を握れば、煉獄は輝く笑顔を義勇へと向けてきた。
「すまん。またやってしまったな。冨岡、十二階でもこうして教えてくれ」
声をひそめて笑う煉獄に、虚を突かれた義勇は、思わず目をしばたたかせた。
義勇の反応は、煉獄にとっては予想外だったのかもしれない。笑みを消しわずかばかり眉尻を下げた顔は、どことなく不安げにも見えた。
「駄目だろうか。あぁ、もちろん君に頼りっきりになるつもりはないぞ。ちゃんと場所柄をわきまえるよう、俺も注意する」
「いや……十二階は、俺も行ったことがない。案内できないが」
「かまわないとも。道案内が欲しいわけではない。冨岡、君と行きたいだけだ」
静かな声音で言われ、ドキドキと心臓が騒ぎ出す。
ではまた煉獄と手をつなぎ、市井の人々と同じように娯楽に興じられるかもしれないのか。昔、姉の手を引いて、姉さんこっちと笑ったあの日々のように。それはひどく魅惑的な想像だった。
けれど、馬鹿なと自嘲する自分もまた、義勇のなかには存在している。
鬼狩りに休日などない。たまさか無惨が出没した場所が歓楽街だっただけで、そんな事情でもなければ、任務でもなしに浅草に繰り出すことなどないだろう。だからこんなのは、果たされることのない徒言(あだごと)だ。煉獄だってきっと、約束の意味で口にしたわけではないに決まっている。わかっていても、義勇の胸は騒いだ。
「君に無理をさせたいわけではないんだ。都合が悪ければ、俺に遠慮せず断ってくれてかまわない。だが……君が嫌でなければ」
「おいっ、兄ちゃんたち邪魔だよっ。見終わったんならどいてくんな!」
煉獄の言葉に被せて背後からかけられた声に、思わず義勇は肩を跳ね上げた。煉獄も同じ仕草をしたのを見れば、驚きは同様だったらしい。
慌てて二人同時に振り返ると、年嵩の男がいかにもイライラと睨みつけていた。男の後ろにも展望台に出る順番を待つ者が、同じような顔つきで並んでいる。気配を消しているわけでもない一般人相手に、なんという失態か。
「すみませんっ! 冨岡、どうする?」
落ち込みかけた義勇と違い、煉獄はすでに堂々としたものだ。本物の柱はこんなところからして違うなと、ほんの少し自己嫌悪が増すが、素直な羨望もまた、義勇の胸にわく。
「煉獄が満足したなら、移動したほうがいいと思うが」
「俺は君といられるなら、どこでも」
ためらいがちの問いに返されたのは、そんな言葉だ。声音はどこか甘い。耳に顔を寄せてのささやきは、人が多いからだとわかっているのに、心なしか陶酔しているように聞こえた。
ビクリと怯んだ義勇を見つめる煉獄の顔が近い。なんなのだ、これは。これではまるで睦言ではないか。
目を見開いた義勇になにを思ったのだろう。煉獄はまたかすかに眉尻を下げたが、すぐにいつもと同じ闊達な笑みを浮かべた。
「ほかを回る時間がなくなっては困るな。行こう冨岡」
ムッと睨んでいる男に軽く会釈して、煉獄は義勇の手を引き歩きだした。一人ならば義勇とて慌てもしないが、どうにも今日は勝手が違って反応が遅れる。まごつく義勇と違い、煉獄は平常心を保っているようだ。これではどちらが案内しているのだかわかりゃしない。
「姉上とは次にどこへ行ったんだ?」
「あのときは展示が骨董だったから、ほかを回ろうと……。あぁ、活人形(いきにんぎょう)を見に行ったんだと思う」
「そんなものもあるのか。楽しみだな。歌舞伎の一幕があればいいんだが。冨岡は歌舞伎は好きだろうか。俺はわりと観るほうなんだが、去年、歌舞伎座が市村座や帝国劇場と『勧進帳』を競演していただろう? 運良く市村座のを観られたんだが、吉右衛門の富樫は初役とは思えぬ素晴らしさだった。残念ながら、肝心の弁慶と義経は今ひとつだったがな。冨岡はどれか観たか?」
「いや、歌舞伎は観たことがない」
父や母が存命のころは義勇が幼すぎて、家族での行楽に、観劇のたぐいは含まれていなかったのだろう。姉に誘われるのは両親との思い出の場所ばかりだったから、観劇の経験はろくにない。ここ花屋敷でも、せいぜいが操り人形の劇を観たぐらいだ。流行りの活動写真だって、義勇は一度も目にしていない。
隊士となり俸給を得るようになってからも、娯楽など目もくれず、ただひたすらに鬼狩りと鍛錬の日々を送ってきた。負傷し休養を命じられても、せいぜいが詰め将棋を問いて過ごすぐらいで、我ながら面白みなどまるでない男だ。
わずかばかり気後れしつつ言った義勇に、煉獄は呆れるどころか、どこかうれしげに顔をほころばせた。
「それなら、俺が冨岡に教えられることもあるんだなっ。十二階だけでなく、歌舞伎にも一緒に行かないか? だがその前に、君が姉上と行った場所をめぐるのが先だな。冨岡の思い出をたどれるのが楽しみだ!」
なにがそんなに楽しいのだろう。煉獄が自分なぞの過去に興味を持つ理由は、義勇には想像もつかなかった。
水を差すのも申しわけなく、さりとて、たやすく約束などできる立場にはお互いない。こんな日は稀なのだ。偶然が重なり合ったからこそこうして花屋敷になどきているが、もともとは調査が目的だ。そんな用向きでもなければ、任務がない日には鍛錬に励む。隊士となって以来、義勇はそうして日々を過ごしている。
煉獄は義勇と違い、甲のころから継子を迎えていたと聞く。あいにくと煉獄の稽古は厳しすぎて、脱落者続出という話だが、面倒見のいい彼らしい一面だ。弟も隊士を目指しているようだし、稽古をつけてやっているのなら、任務や自分の鍛錬以外にも忙しいことだろう。俺をかまう暇などなかろうにと、義勇は戸惑いを深くした。
義勇がろくな返事をできずにいても、煉獄は気を悪くするでもなく、にこやかなままだ。手もずっとつないだままでいてくれる。ならば、約束はできずとも今日ぐらいは。
作品名:いのちみじかし 前編 作家名:オバ/OBA