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いのちみじかし 前編

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 夜想曲……夜に想う。そんな日は、おそらく自分には二度とこない。夜とは戦いの時間であり、血の臭いと泣き声に包まれる刻限だ。無惨を斃したあとに訪れるはずの、穏やかな夜のなかにいる自分の姿など、義勇は思い描けない。
 それでも、願う。いつか安穏とした夜に月明かりの下で、煉獄がこの曲を聞いてくれたらいいと。
 儚いばかりの願いは、祈りに似ている。彼がふたたびノクターンを聞くときには、傍らにいるのが誰であれ、ほんの一瞬でもいい、自分を思い出してくれたのなら。それはどれほどうれしく、誇らしいことだろう。初めてこの曲を聞いたときに、手をつなぎ合っていたのは冨岡だったなと、少しだけ微笑んでくれたのなら、それ以上は望まない。
 万が一、自分が生き延びたときにも、思い出には煉獄の笑顔があるだろう。姉が弾くたどたどしいノクターンを耳によみがえらせながら、思い浮かべるのはきっと、姉のやわらかな笑みと煉獄のぬくもりや微笑みだ。握り合う手が、それを確信させる。

 こうしてまろい心持ちでいられるのは、彼の手が、熱くやさしいから。煉獄が隣りにいるから、懐かしい音色にも悲しみだけに引き込まれずいられる。

 義勇はゆっくりと目を開けた。浮かびかけていた涙はもう、乾いている。
 うかがい見れば、煉獄は音色に身を委ねるように目を閉じていた。唇はやっぱりやわらかく弧を描いている。義勇の唇にも、ささやかな笑みが浮かんだ。
 沈黙のなかで、ノクターンが静かに流れていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「蓄音機というのは凄いものだな。まるで目の前で人が演奏しているみたいだった」
「俺も、初めて聞いたときには同じことを思った」
 ざわめきを取り戻した人々が、三々五々散っていく。最上階に設えられた展望台に向かう者もいれば、ほかの展示を見るために階下へと足を運ぶ人もいる。周囲の目を気にしてか、煉獄の声はまだ少し控えめだ。
「冨岡もか! 同じように感じられたのなら、うれしいかぎりだ!」
 前言撤回だ。なにがそんなにうれしいのか、興奮しきった声は常と変わらず大きい。
 周囲を驚かせるに十分な声量に、とがめだての視線が一斉に二人へと向けられた。
 義勇が注意するまでもなく、煉獄も注目を浴びているのに気づいたらしい。また少しばかり恥ずかしげに笑うと、照れ隠しめいたそぶりで頭をかいている。
 煉獄にしては見慣れぬ仕草だが、妙に様になっている。男らしい顔立ちをしているだけに、少々子供っぽい仕草や表情をすると、どことなく愛嬌があってかわいらしくすらあった。
 年下とはいえ煉獄は、義勇からすれば柱とはかくあるべしという見本の如き男である。かわいらしいなどという感想を、煉獄が知れば気を悪くするだろう。思い上がらぬようにせねばと、義勇はさり気なく呼吸を整えた。
 どうも今日は感情の揺れ幅が大きくていけない。ノクターンのせいだろうか。感傷に惑わぬよう努めていたというのに、思い出にひたるなど何年ぶりだろう。
「こういう場には慣れていないので、どうもいかんな。大きな声を出してはいけないとわかってはいるんだが」
「声が大きすぎたら、教える」
 余計な世話だろうかと思いつつも、わずかに視線をそらせ義勇が言うと、煉獄の笑みが深まった。
「ぜひそうしてくれ!」
 弾んだ声がひびいて、義勇はつないだ手に力を込めた。意図は過(あやま)たず煉獄に伝わったらしい。煉獄は言葉を重ねることなく、小さく忍び笑った。喜びを抑えきれない。そんなふうに感じられる笑みだ。
 口下手な自分が言葉で注意すれば、煉獄を不快にさせてしまうかもしれない。故に選んだ方法だったが、煉獄の反応は予想外だ。
 喜色あらわな煉獄に、義勇は気恥ずかしさを隠しきれず、つい手を引きそうになった。途端に手を握り返されて、視線を上げると、生真面目な顔がまっこうから見つめている。煉獄の頬はほんの少し紅潮していた。
「このまま手をつないでいてくれないだろうか。俺は行楽には縁がなかったから、まるで経験がない。いたらぬところがあれば、さっきのように君が教えてくれ」
「俺だって慣れてるわけじゃない」
 謙遜ではなく事実だ。貧しいと思ったことはないが、本来なら女学校へと通う歳の姉と幼かった自分の二人暮らしは、つつましやかだった。頻繁に行楽するようなお大尽な生活だったわけではない。
 両親が亡くなってすぐに、以前には数人いた手伝いも、姉が暇をやった。毎日台所で立ち働き、たらいで洗濯するようになった姉の手には、いつからかあかぎれが目立つようになっていた。
 つましく暮らすぶんには、ばあや一人ぐらい雇っていられただろう。けれども、ばあやがどんなに、お嬢様と坊ちゃまを置いて故郷になど帰れませんと泣いても、姉の決心は固かった。今ならばわかる。姉は両親の遺産を減らさぬよう努めていたのだろう。理由など考えるまでもない。

 ――俺の将来のためにと、姉さんは、苦労を買って出てくれていた。

 義勇が望むのならば高等学校(現在の大学相当)や大学(同、大学院修士課程相当)にだって進めるようにと、姉が決意していたのは想像に難くない。両親が亡くなった当時は、官立(国立)の帝大でさえ授業料は年二十五円、私学ともなれば三十六円もしたはずだ。ただでさえ子供だけとなった暮らしだ、気丈な姉にも不安はいくらでもあっただろう。けれど姉は、義勇の学費のためにと、頼りにしていたばあやにまでも暇をやり出費を抑え、苦労を重ねようともいつでも笑ってくれていた。
 尋常小学校を修了したらどこかに奉公すると告げたときにも、姉は、お金の心配などしなくていいのと義勇を懇々と諭し、高等小学校へと進学させたものだ。無償である尋常小学校と違い、高等小学校には授業料がかかる。だというのに、姉は齢十歳の義勇が働きに出ることを、頑として許さなかった。自分は新しい着物も買わずにいたくせに。あかぎれのある細い指先を思い浮かべ、義勇は小さく唇を噛む。
 それでも姉は、ときおり義勇を行楽へと連れ出した。行くのはいつも、義勇がもっと幼いころに、父や母と行った場所だ。帰宅すると姉は、楽しかったねと笑い、必ず同じ言葉を口にした。

『――いてね、義勇。――――約束、ね?』

 細い小指を差し出して姉が笑うから、義勇も笑って小さな指を絡めてうなずいた。声をそろえて指切りげんまんと歌った日々。義勇の目がゆっくりと見開いた。
 そうだ、約束した。何度も、何度も、指切りげんまんと約束したのに。

 義勇は煉獄の目をじっと見つめ返し、もう一度手に力を込めた。
「わかった」
「本当かっ? よかった、ではこれが合図だな! ありがとう、冨岡!」
 ギュッと握り返される手に、小さくうなずく。煉獄は満面の笑みだ。とろけるように幸せそうな笑みは、やっぱりまぶしい。
 礼を言わねばならないのは、俺のほうだ。思いながらも言葉にはせず、義勇は静かに口を開いた。
「次は、どこへ行く?」
「君が姉上と回った順にしよう。俺にも君の思い出を共有させてくれ!」
 明るく朗らかな声と笑みが、思い出の笑顔と重なり、また涙を誘われる。懸命にこらえて、義勇は日差しの差し込む展望台を指さした。
「……あそこだ。二人で並んで、十二階を見た」
作品名:いのちみじかし 前編 作家名:オバ/OBA