転変
「なっ、何をする杏寿郎!」
がばりと起き上がり、目にうっすらと涙すら浮かべて抗議の声を上げてくる相手の手に西瓜を持たせる。
「鬼とて人の食べ物が食べられないわけではないのだろう?」
「……まあ、そうだが」
「せっかくの上物だ。君も味わうと良い」
「味などどうでもいい。美味いと感じる者が食ったほうがいいだろう」
突き返そうとしてくる猗窩座に、かぶりを振って小さく笑う。
「俺と同じものを君にも食べてもらいたい」
「……。お前はすぐそういうことを…。だが、杏寿郎がそう言うなら食ってやる」
憮然とした面持ちで、猗窩座は西瓜にかぶり付く。
どうやら落ち着いたらしい。
無感動に頬張っていく相手を満足げに眺めて、煉獄は静かに口を開いた。
「これは持論だが、考えても仕方のないことは考えないほうがいい」
ちらりと金色の視線が向けられたかと思うと、それはすぐに手元に伏せられる。
「気の迷いということもあるだろう。今日のことはお互い忘れよう」
「…悪いが、無理だ」
「む…?」
ぽつりと落とされた、懺悔のような響きを孕んだ声。
伏し目がちな睫毛が目元に影を落とし、憂いを滲ませる。
「気の迷いなどではなかった。あれは俺の身体の真なる欲求だ」
ゆっくりと、噛み締めるように猗窩座は言う。
「杏寿郎のことは食いたいと思う。しかしあのときの俺は、お前を傷つけたくなかった。…傷つけたくないのに、壊したくなった」
「……」
「あの昂りの先には、何がある?」
至極真面目に自問自答しているが、答えは単純明快だ。
…言うべき、なのか?
いやもう少し様子を見るか…
「今ここで結論を出す必要はないだろう。焦ることはない」
「同じことをすればあるいは…」
「…君、聞いているか?」
彼の思考に不穏なものを感じとり、煉獄は思わず距離をとる。
「杏寿郎。俺はお前の言うとおり西瓜を食った。今度はお前が俺の言うことを聞け」
「…内容によるな」
嫌な予感しかしない。
そして、そういった予感というものは大概当たるものである。
猗窩座は真顔で言い切った。
「先刻の続きだ」
「やはりな!まったく釣り合わないぞ。却下だ!」
予想通りの提案をすかさず斬り捨てる。
しかし猗窩座は尚も食い下がった。
「何故だ杏寿郎!お前は気にならないのか!」
「ならない」
「な、ならないだと?俺を理解したいと宣いつつお前っ…」
「そうではない!知っているから問題ないということだ!」
勢いで訂正してしまってから、しまったと口を引き結ぶ。
猗窩座は西瓜を適当に放り、腰を上げるとこちらに詰め寄った。
「知っているとはどういうことだ…。ならば教えろ。どうしたら消えるのか!」
「っ…、言えば、君の矜持を傷つけかねない」
「構わん。情けをかけられているほうが余程惨めだ」
唾棄するように言う猗窩座に、煉獄の瞳が僅かに泳ぐ。
彼の根底に侍や武士と通じた部分があるのは薄々感じていたことではある。
逡巡し、結局相手の意思を尊重した。
「…おそらく、色欲だ」
「……それで?」
「ん?……いや、だから男児の性というやつだ。突発的に俺に欲情した結果だろうが、誰しもあることだろう。鬼は特に欲に忠実なのかもしれん」
「…では何故、俺はお前に欲情なんぞした?」
「それは……間が悪かった、としか…。とにかく、君が気に病むことはーー」
「…杏寿郎。さてはお前…」
猗窩座を極力傷付けまいと、言葉を選びながら仕方のないことだったと説明を試みるが、唐突に落ち着き払った声音に遮られた。
がらりと変わった彼の雰囲気に内心身構える。
しかしその表情は、困ったように笑う、大人びたものだった。
「色恋に疎いな?」
「ーー…」
時が、止まったように感じた。
どこからかは不明だが、少なくとも今しがたの問答はこちらを誘導するための、彼の演技だったのだ。
色恋という単語ひとつで、すべてが繋がっていく。
「どうやら俺はお前に好意を持っている」
「……」
「俺のものになれ。杏寿郎」
傲慢な言葉とは裏腹に、凡そ鬼のものとは思えない穏やかな笑顔を向けられ、煉獄はただ見つめ返すことしかできなかった。
fin.