迷子のヒーロー
自分と言う存在すべてが掠れて、消えて、なにもなくなってしまうことを。自分は心の底では、望んでいるんじゃないだろうか。疑問は確信めいていて、魅惑の笑みで手招きする悪魔のようだ。義勇がどんなに否定しようとしても、ふとした瞬間に浮かび上がっては、認めてしまえとささやいてくる。
ギュッと目をつぶり、義勇は浮かんでは消える言葉を頭から締めだした。
もうなにも考えまい。なにも思い出すまい。
しょせん自分は、ふわふわと漂い生きるしかないのだ。それ以外の生き方などできそうにない。もう、できない。
「お待たせしました!」
「おまたてしました! あれ?」
「お待たせだよ、禰豆子」
「間違えちゃった」
元気よくドアが開くのと同時に聞こえてきた兄妹の会話は、ほのぼのと温かい。ほかの者が目にしたのなら、自然と笑みを誘われるに違いなかった。
けれど、義勇の心には遠くひびく。見知らぬどこかから、かすかに聞こえてくるだけの声だ。
自分をやたらとかまいたがる幼い子供はほかにもいるが、彼らの言葉ならば義勇の心にも届く。義勇を案じる老爺と幼子たちが願うから、義勇はどうにか息をして食事をし、学校にだって通っている。
けれどこれ以上は無理だ。彼ら以外の誰かを心に入れる余裕など、義勇にはない。
無反応の義勇にがっかりするでもなく、子供らは手にした盆を運ぶことだけに集中しているようだ。よいしょという声とともに義勇の目の前に置かれた盆には、幾種類ものパンが乗った皿と、湯気を立てるマグカップがあった。
「義勇さん、好きなの食べてくださいね! 全部食べちゃってもいいですよ!」
「あのね、お母さんがミルクティーどうぞって。おいしいの。ぎゆさんも飲んでね」
返事をしない義勇に、兄妹が顔を見合わせた。
「どうしよう、禰豆子。もしかしたら義勇さんはパンが嫌いなのかもしれないぞ」
「どうしよう、お兄ちゃん。でも禰豆子はパン好きだよ?」
「俺も好きだけど、朝ご飯はパンよりご飯のほうがいいなぁ」
「禰豆子はパンのほうがいいな。でもご飯も好き」
「義勇さんは朝ご飯はパンですか? ご飯ですか?」
「あのね、禰豆子はパンもご飯も、おかずは目玉焼きがいいの。ぎゆさんは目玉焼き好き?」
「俺は玉子焼きも好きです! 母さんが作ってくれるのは甘いんです。義勇さんちの玉子焼きは甘いのですか? しょっぱいのですか?」
いつの間にやら義勇の両隣を陣取って、義勇を挟んで会話し始めた兄妹に、さすがに義勇も少しだけ狼狽する。
なにか答えなければこの兄妹はいつまでも話しかけてくるのだろうか。
よく知る幼子たちも怖いもの知らずなことこのうえないが、ここまで傍若無人ではない気がすると、義勇は遠い目をしてぼんやりと考えた。思わず諦めのため息をつく。
「……嫌いじゃない」
ようやく口を開いた義勇に、パッと子供の顔が輝いた。それはもうまぶしいほどに明るい笑顔だ。
「パンがですか? 目玉焼きがですか? あれ、ご飯のことかな」
「パン……嫌いじゃない。けど、好きでもない」
どうでもいいのだ。昔は食事も楽しいものだったように思うけれど、今は心配させないため口に入れる物でしかない。
「うちのパンはすっごくおいしいって評判だから、義勇さんもきっとパンが好きになりますよ!」
どうあっても食べないことには解放してもらえないらしい。しかたなく義勇は、一番手前にあった小さなクロワッサンを手に取った。
まじまじと見つめてくる兄妹に戸惑いながら、手にしたパンにかじりつく。
クロワッサンはさっくりとしていて、口のなかでほろりとほどけた。鼻に抜けるバターの香りは豊かだ。きっと子供が自慢するとおり、とてもおいしいのだろう。けれどその味わいも、義勇の心にさしたる感慨を呼び起こしはしない。
ただ黙々と噛みしめ、飲み込む。その繰り返しで解放してくれるなら、パンのひとつやふたつ、食べることに否やはない。
黙ったまま小さなパンをもそもそと食べる義勇の顔は、きっと不機嫌そうに見えたろう。それでも子供は、それはそれはうれしそうに笑ってなおも話しかけてくる。
「義勇さんはどうしてあんなに強いんですか?」
「……強くない」
「強いです! それに、凄くやさしいです」
興奮しているのか頬を赤く染め、子供はきらきらとした瞳で義勇を見上げて笑っている。
「やさしくなんてない」
「どうしてですか? だって義勇さんは、俺と禰豆子を助けてくれました! 犬が怪我してたのにも気がついたし、苦しくさせてごめんなさいって謝ってたじゃないですか」
義勇さんはとても強くてやさしい人です。俺のヒーローです。少しだけ照れてるような顔をして、それでも子供は揺るぎない信頼を乗せた声で言う。
義勇にとっては、胸を突き刺すものでしかない言葉を。
「俺は強くない。やさしくもない。俺は……」
強かったのなら、きっと守れた。
やさしかったのなら、きっと……。
「俺は、人殺しだ」
そうだ、俺が殺した。
大切だったのに。大好きだったのに。
いつまでも一緒にいられると思っていたのに……殺してしまった。
あのときに自分の心も動きを止めたのだ。今の自分はただの抜け殻だ。本当にやさしい人たちを悲しませないように生きているだけの、心を無くしてただ生きているだけの抜け殻。
「え……?」
大きな目を見開いた子供から視線をそらせたまま、義勇は、黒い靄の立ち込めだした心のなかにうずくまる。
なにも見ない。なにも聞かない。見えないし、聞こえない。動けない。
子供の戸惑いが、見上げてくる視線から伝わってくる。
「もう俺にかまうな」
いつか朽ちるまで漂い生きるだけでいいのだ。それしか自分は望んでいない。
こんなふうにキラキラとまばゆい子供は、自分のような者には眩しすぎて痛い。蔑みよりも、下世話な好奇心に満ちた哀れみよりも、裏表のない尊敬と憧憬の視線こそが、義勇に痛みを伝えてくる。
悲しむ資格なんてないのに、子供のまばゆい瞳は、義勇の胸に悲しみを呼び起こす。
この曇りのない目が怯えに歪むのは見たくないな。そんな言葉が、ほんのかすかに浮かんで消えたのはなぜなのか。義勇にはもう、わからなかった。