迷子のヒーロー
自宅にいなかった義勇に連絡が取れたのは、二人の死亡が確認されてからだった。義勇が直接その報告を聞かずにいられたのは、几帳面な姉が、手帳に鱗滝の道場の電話番号を書いていたからだ。もしも自宅でその報告を受けていたなら、義勇はその場に立ち尽くしたまま、なにもできず呆然としていたことだろう。
身元確認は、剣道の師匠である鱗滝がしてくれた。葬儀の手配もすべて鱗滝だ。義勇はただぼんやりと、泣き喚きもせず言われるがままに従っていただけだった。
身寄りのない姉弟だったから、義勇を施設に入れるのは、周りの大人たちからすれば自然な流れだったろう。それに反対し、鱗滝は、義勇を引き取ってくれもした。なにを言っても反応することがなくなった義勇を、心の底から案じてくれたのだと思う。
錆兎たちだって同じことだ。
それまでとはまったく様子の違ってしまった義勇に、怯えもしただろうに。けれど錆兎と真菰は、小さな体で懸命にあれこれ世話を焼いてくれた。
「俺が素直になっていれば……そもそも俺が余計なことをしなければ、姉さんもあの人も死ななかった。俺が殺した。俺がいなければ……俺さえいなきゃよかったのにっ。俺が姉さんの弟だったから、二人共死んだんだ! 俺が殺したんだ!」
押し殺した悲鳴のような告解に、素早く反応したのは錆兎と真菰だ。
「違うだろ! 悪いのは昼間から飲んだくれて飲酒運転した馬鹿だけだ! 義勇が悪いんじゃない!」
「そうだよ! 義勇はなんにも悪くないじゃない!」
錆兎と真菰の必死な声音を、どこか遠い場所で義勇は聞く。心配させたくないのに、心に立ち込める黒い靄が心を押し包んで、義勇を現実から遠ざける。
自分には泣く資格などないから。人殺しの自分に、悲しがる権利などないから。
それなのに、現実は義勇の心に悲しみを湧きあがらせる。苦しいつらいと、涙を零させようとする。
だから義勇の心は迷子になった。現実から遠ざかって、動けなくなった。動きたくなかった。
『迷子になったときは動いちゃ駄目よ? 姉さんが迎えに行くまで、じっとしてるのよ?』
幼いころ、姉と出かけるたびに言われた言葉。もしかしたら今の自分は、自ら望んで迷子になっているのかもしれない。迷子になって動かずにいれば、姉が迎えに来てくれる。そんな馬鹿な妄想に囚われているのかもしれない。
黒い靄に包まれる思考の片隅で、そんなことを漠然と思ったとき。
「義勇さんのお姉さんは、とってもやさしい人なんですね。それでもって、義勇さんのことが大好きだったんだってわかります!」
腕のなかから柔らかな声が聞こえ、義勇はそろりと顔を上げた。
「だって義勇さんも、とってもやさしいから。きっとお姉さんがやさしいから、義勇さんもやさしくなれたんですよね。俺もね、大人が俺のこと褒めてくれるときに、父さんと母さんがきちんとしてるからだって言われるんです。父さんと母さんがいい人だから、いい子になったんだねって」
義勇の腕のなかで、子供はにこにこと笑っている。義勇を責めるでも、慰めるでもなく、ただにこにこと。
「俺、自分が褒められるより、そっちのほうがうれしいんです。父さんと母さんが褒められるほうが、俺が褒められるよりずっとうれしい。禰豆子や竹雄たちが褒められるのもうれしいです。お兄ちゃんに似ていい子ねって禰豆子たちが褒められるのは、ちょっと恥ずかしいけど。でもね、本当に一番うれしいのは、俺が褒められて父さんや母さんがすごくうれしそうにしてくれることです。大好きな禰豆子たちを褒められて、俺がうれしくなっちゃうのと同じかなって、照れちゃうんですけど」
言って、子供は言葉通りに照れ笑う。はにかんだ頬がちょっと赤い。
「義勇さんはどうですか? 俺とおんなじで、お姉さんが褒められるほうがうれしいですか? お姉さんがうれしそうにしてるのが、一番うれしいですか?」
朗らかな子供の声はするりと義勇の心に入り込んで、小さな明かりをふわりと灯した。
黒い靄のなかで、ゆらゆらと温かな明かりが揺れる。まだそれは、とても小さいけれど。
「……うれしい。俺も、姉さんが褒められるとうれしかった。姉さんが笑ってくれるのが、一番、うれしい……」
「やっぱり! じゃあきっと、お姉さんも義勇さんが褒められるほうがうれしいです。義勇さんが笑ってるのが、一番うれしいって思ってくれてますよ! だって義勇さんとお姉さんは、やさしいとこがそっくりなはずだから」
それでも悲しくて迷子になっちゃうときは、俺が義勇さんを迎えに行きますね! 俺が手を繋いであげます。ずっと一緒にいるから大丈夫ですよ。義勇さん、もう寂しくないですよ。
朗らかな声が心に染み込むにつれ、少しずつ、少しずつ、小さな灯りは明るさを増していく。黒い靄が薄れ、義勇は視界を取り戻す。腕のなかで義勇を見上げて笑う子は、明るくやさしい目をしていた。
柔らかそうなまろい頬。赤味がかった大きな目もくりりと丸い。意志の強そうな眉。秀でた額に痛々しい痣があるのに義勇は初めて気づいた。どこかぼんやりとして見えていた子供の顔が、今ははっきり見える。
子供の肌は少し汗ばんでいる。ちょっと汗の匂いがした。膝に感じる重み。うれしげに笑みを浮かべる、自分よりずっと幼い男の子。
とても、とても温かい、その熱。
子供の笑顔が不意にぼやけた。もっとはっきり見たいのになぜだろうと、小さく首をかしげたら、頬を濡れた感触が伝った。
「義勇さん!?」
子供の声があわてている。小さくて温かい手が頬に触れた。
「悲しいですか? 大丈夫ですよ、俺、ずっと一緒にいます! 義勇さんがどこに行っても、絶対に俺が迎えに行ってあげますから!」
だから泣かないでと言う子供の声に、自分が泣いていることを知る。
姉たちが亡くなってから初めて義勇が流した涙は、小さな子供の手をも濡らして、こぼれ続けた。
『大丈夫よ。姉さんが一緒にいるから。ね、義勇。大丈夫。だから……』
『だから、泣きやんだら、笑って? 義勇の笑顔が、姉さんは一番好きだから……笑って?』
よみがえる、その言葉。なぜ忘れていたんだろう。大切な言葉だったのに。
この子が……思い出させてくれた。大事な、大事な、やさしい愛の言葉。
「迎えに、来てくれるのか……お前が」
この子供の名はなんといっただろう。たしか……。
「はい! 絶対に迎えに行きます!」
――そうだ、たしか。
「……炭治郎」
そっと呟いた名前に、炭治郎は大きな目をますます大きく見開いて、すぐに満面の笑みをみせてくれた。
「はい!」
明るく元気な声に、義勇は泣きながら小さく笑った。