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百年の約束は、いらない

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「待ってない。錆兎につきあっただけだ」

 義勇は嘘が苦手だ。だけど、一つぐらいはつけるのだ。
 ずっと、嘘をついてきた。待ってなんかいない。煉獄を待っていたわけじゃない。煉獄とは、ただの先輩と後輩だ。恋なんて、していない。
 自分の心へとひたすらそんな嘘をついて、でも嘘は苦手だから、心の奥でもう一人の自分がバレバレだ嘘つきめと笑う。そんな月日は、もう終わらせる。
 ぐっと息を呑む気配がする。義勇は窓の外を見つめたまま、煉獄へと向かいたがる視線を懸命にこらえた。
 今さらそこに戻るんですかと、いつものように笑ってくれたらいいのに、煉獄はなにも言わなかった。
 窓ガラスに映る煉獄の顔が、組んだ腕にふせられ隠れた。こんな態度も初めて見る。なぜだろう。泣くのをこらえている、なんて。そんなふうに感じるなど、どこまで浅ましいのだか。
 自嘲は思い出したくもない光景を思い出させる。

 今年入った一年女子のマネージャーは、部員たちがさわぐほどに愛らしい少女だった。ポニーテールのつややかな髪と、細いうなじをした華奢な女の子。部外でもモテていただろうが、鼻にかける様子などまるでなく、気立てのいい働き者だ。だけど。

『すまない。好きな人がいる。君の気持ちには答えられない』

 昼休みの校舎裏はめずらしく人気(ひとけ)がなく、グラウンドの喧騒も遠かった。大きな桜の樹の下でひっそりと泣くマネージャーの細い首はうなだれて、小さく震えているのが見えた。窓の影に身を潜めて、図書室で借りてきた文庫本をつかむ、義勇の手と同じぐらいに。
 マネージャーが立ち去った後も、しばらく煉獄はその場に立ち尽くしていたから、義勇も動けなかった。借り物の本を強く握りしめて、ただじっと震えることしかできなかった。部は引退したのだから放課後でもよかったのに、習慣で昼休みに図書室に行ったことを悔やみながら。
 長く深いため息が聞こえて、煉獄がやっと去っていったのは、昼休み終了のチャイムが鳴る少し前だ。その場に佇んだままでいた煉獄が、なにを考えていたのかなんて、義勇にはわからない。自分の初恋が散ったことしか、義勇に理解できたものなどないし、それだけで十分だった。
 あの子でさえかなわない、煉獄の好きな人。知ったら砂粒みたいな希望も打ち砕かれて、馬鹿な時間を過ごしたと笑えるだろうか。でも、やっぱり知りたくはない。知らないまま、終わるほうがいい。
 卒業したら、剣道はもうしない。そうしたら、煉獄とはろくに逢うこともなくなるだろう。そうしていつか、もっとずっと嘘をつくのが上手になって、どこかの街角で偶然出逢ったときには、てらいなく笑うのだ。
 元気か? 結婚したのか、おめでとう。子供は? と。

 ふっと肩の力を抜き、義勇は重い腰をようやくあげた。パタンと文庫本を閉じても、煉獄はまだ顔を伏せたままだ。
「もう暗くなるぞ。練習まだやってるだろう? 行かなくていいのか?」
 問いかけても、煉獄は答えない。本当にめずらしいこともあるものだ。なんだか少し不安になってきて、義勇は、どうしようと小さく拳を握った。
 肩を、揺すってみてもいいだろうか。触れても、かまわないだろうか。最後に一度だけ、自分から。
 煉獄は高校生になってもどこかしら無邪気なところがあって、物怖じしない性格も相まってか、「先輩」と敬う口調や態度はそのままに肩を組んできたり、座り込む背に寄りかかってきたりする。そのたびいつだって、跳ねる鼓動の音が聞こえてしまわないかと不安になりながらもうれしくて、義勇は泣き出しそうになった。
 だけど、義勇からは一度だって触れたことがない。自分から手を伸ばしてしまったら、嘘をつけなくなりそうで怖かった。
 今も怖い。だから戸惑う手を、握りしめることしかできずにいる。

「先輩と見るなら……夕焼けよりも、星が光る夜空のほうがよかった」

 不意に聞こえた声に、義勇はビクンと肩を揺らせた。腕に顔を伏せたままの煉獄の声は、少しだけくぐもって、それでもやっぱり穏やかだ。ささやくようだった。
「……おまえは、夏空とかのほうが好きかと思っていた」
「夏の空も、好きです。青いから。だけど、夏空よりももっと、星月夜は冨岡先輩の目に似ている」
 夢は、もう見ない。終わりにするんだ。決意したのに。
「……待っててくださいとは、もう、言いません」
 毅然と上げられた煉獄の顔。もう日はかなり沈んで、教室は暗い。だけど、義勇を見上げる瞳は、変わらず燃えるようだった。
「待たなくていい。どれだけ先輩が離れようとしたって、俺が追いかけるだけだ。勝負はもうしてもらえなくても、先輩を追いかけ続ける。誰かに取られる前に、絶対に追いついてみせる」
 いつもの敬語も消えている。大きな手が伸びてきて、握りしめたままの義勇の手をとった。焼き尽くされそうな焔の瞳と同じぐらい、その手は熱い。
「……好きな、人、いる」
 って、言ってただろう。
 そこまで言い切ることはできなかった。痛いぐらいに強く、手を握られたので。立ち上がった勢いで倒れた椅子が立てた、ガタンっという大きな音に、グッと寄せられた顔に、鼓動が止まりかけたので。
「……誰? 冨岡先輩の好きな人は、もしかして、鱗滝先輩か?」
 おまえの話をしているのに、なんでそうなる。とっさに義勇はブンブンと首を振ったけれど、できたのはそこまでだ。煉獄の顔は真剣すぎて怖いぐらいで、言葉を紡ぐことはできなかった。
「俺の知ってる人か?」
 痛い。握りしめられた手も、うるさいぐらいに騒がしい胸も。
 夢なんて、もう見ないって、決めたのに。
「……五センチ、俺より、背が低かった」
 煉獄の眉間にギュッと深いシワが刻まれる。真剣なんて通り越して、獰猛にすら見える怖い顔で、煉獄がうなる。
「春に、一センチ、超されたけど」
 名前は、言えない。まだ怖い。このまま夢を見ていていいのか、わからなくて怖いから、言えない。
 かすかに煉獄の首がかしげられる。瞳はまっすぐに義勇を見つめたまま。焔を宿したその目は、ゆっくりと見開かれていった。

 初めて出逢ったとき、煉獄はまだ、義勇より小さかった。中学になっても、高校になっても、煉獄が伸びるぶん義勇も背が伸びる。それでも差はだんだん縮まっていき、とうとう追い越されたのは、今年の春のこと。
『やった! 冨岡先輩より大きい!』
 身体検査の次の日に、満面の笑みでうれしげにガッツポーズした煉獄を、たった一センチじゃないかと部の全員が笑ってた。

 ゴクリと鳴った小さな音は、どちらが立てたものだろう。窓の外には一番星。もう、日はとうに暮れていた。星と月がきらめく夜空が天空には広がっている。
 ゆっくりと目を閉じたのは、義勇のほうが早かった。自分は夢一夜の女と違って、白百合のようにきれいなものではないけれど、煉獄は首を前に出して接吻してくれたから、きっとそれで正解だったんだろう。

「いつか……朝焼けも、一緒に見たい。義勇と……」

 約束、と指を絡める気はなく、義勇はただ小さくうなずいた。
 百年なんて、待たせたくないし、待たなくていい。