転変 3
「……」
陽光が届かない滝の裏手にある洞窟に身を潜め、猗窩座は己の腕を眺めていた。
ーー守りたかったもの。
煉獄との会話を口火として、断片的に生々しく脳裏に甦る映像。
これは、自分の記憶なのだろうか。
もしそうなのだとしたら、これは鬼になる前……つまり何百年も前のものだ。
この腕にある縞模様は、きっと人の頃にも刻まれていた。
道着のようなものから伸びる腕に、似た刺青が施されていたから。あれは恐らく、罪人の証。
そして布団にくるまって弱々しく咳き込む誰か。
その傍らで看病している俺。
ザアザアと鼓膜を叩く激しい水音も気にならないほど、曖昧で不完全な映像に意識を傾ける。
目を閉じて、没頭していく。
視界が暗闇に閉ざされると、しばらくして想起されたのは光の花。
黒い空に大輪の花がぱっと弾けては一瞬で消えていく。
…花火か。
鬼になってからも花火なんて数えきれないほど見てきた。夜に活動するのだから当然だ。
しかし、頭に流れてきた画には隣に誰かがいる。
その人はとても弱い、守らなくてはならない、大切なーー
『猗窩座殿』
「!」
不意に割り込んできた声に、我に返った。
姿は見えない。そいつの声は直接身体に響いてくる。
上弦の弍、童磨のものだ。
『その辺でやめておいた方がいいぜ。でないと、また無惨様に折檻されてしまうよ』
「…大きなお世話だ」
舌打ちをして小さく毒づくと、やれやれとばかりに童磨は嘆息する。
『俺は心配なんだ、猗窩座殿。…ああそうだ、一度血を与えていただこう。無惨様の血が増えれば、きっとその不安定な状態から戻れるはずだよ。俺からお願いしておこう』
「余計なことをするな、鬱陶しい」
『遠慮はいらないよ。一番の親友が苦しむ姿なんて見たくないからね。今度俺の寺院においで、話を聞こう』
「……」
言い返すのも億劫になり、意識を遮断する。
何かと干渉してくるあの鬼のことが、猗窩座は非常に苦手だった。
へらへらと常に笑っており、人を小馬鹿にしている。そのくせ血鬼術は厄介で心底気に入らない。
童磨はその後も何か言い募ってきたが、相手をしないでいるとやがて声は消えた。
…不安定な状態というのは、記憶を引っ張り出そうとしている現状のことなのだろう。
別段それで困ることもない。任務さえ遂行すれば不都合はないはずだ。
猗窩座は再び、混沌とした記憶の海に潜っていった。
+++
ーーこれは夢だ。
すぐにそうとわかるほど、不思議な世界だった。
なんと言っても自分の目線が低い。童のようだ。
己の意志とは関係なく身体は動いているらしく、夢の中の俺は盗みに勤しんでいた。
手慣れた手技で繰り返しているが、なんの為にこんな愚かなことをしているのか…
冷めた目で自身を見つめていると、俺はほったて小屋に入っていった。
小さな布をつぎはぎにして一枚の布に仕立てた布団。
そこに横たわる一人の痩せこけた男。
……知って、いる。
漠然と、そう思った。
薬……そうだ、親父の薬が必要だった。貧乏で金がなくて、盗みを働いて。
映像が飛んだ。
親父が、首を括って自害していた。
病に心が負けたのではない。
俺が捕まったから。人様に迷惑をかけたから。
その金で得た薬を飲んでまで生きていられるほど、親父は面の皮の厚い人ではなかった。
また映像が飛ぶ。
温和な微笑を称えた、道着を着た男。
喧嘩は負け知らずだった俺は、この人にこてんぱんに伸された。
そして出会ったのが、その人の娘。
病弱で、布団から出られなかった彼女を、何故か俺が看病することになった。
彼女の名前は……なんだった?
症状は改善されていき、俺たちは婚約した。
一緒に花火を見て、来年も再来年も一緒に見ようと、彼女と約束した。
大切な人だ。
罪人である自分に笑いかけてくれる、かけがえのない存在。
己の一生をかけて守り、幸せにしたいと思った。
映像が飛び、二人の顔に布がかけられていた。
…毒だ。
彼女に想いを寄せていた隣の道場の息子。
手合わせでは勝ち目がないからと、奴が俺たちの道場の井戸水に毒を流したのだ。
俺はその道場の奴等を片っ端から殺していった。
どれだけ力をつけたところで、結局卑怯な誰かに大切な人を奪われる。
ーー俺は、また守れなかった。
守りたかったのに。貴女の笑顔を…