転変 3
「…聞いてもいいか。君の過去を」
「何も面白いことはない。お前の耳を汚してしまう。…俺の弱さが招いた、どこにでもある滑稽な話だ」
「しかしっ……俺は、君が力を追い求める理由を知りたい」
必死に理解しようとしてくれる相手に、猗窩座は微笑して静かに続ける。
「俺が強さを求めたのは、人を守るためだった。培った力で散々人間を食い荒らしたとあっては、大切な人に顔向けできないだろう」
「…だから、最期か」
「お前に斬ってもらおうと思ってな。それが叶わないなら日の出を待つ」
そう言って相手の腰に手を伸ばし、日輪刀の柄を握って刀身を晒していく。
煉獄はそれを抵抗することなく見ていたが、抜き身の刀となった炎刀の柄を差し出されると迷うことなく掴んで、思い切り地面に突き刺した。
小石と強く擦れて小さな火花が散り、砂利が弾け飛ぶ。
「…顔向けできないまま死んだとして、あの世で君はどんな顔をするつもりだ」
低く、唸るような声音。
怒っているのだろうか。
「せめて贖罪しろ。取り返しのつかないことをしたのなら、それを乗り越えて塗り潰せ。これから誇れる道を歩め」
…否、これは、悲しみを押し殺しているのか。
「どれほど苦しくとも、悲しくとも、後悔しようとも、犯した過ちは消えない。なればこそ、立ち止まらずに前を向け。心を燃やさず死に逃げるのは怠慢だぞ」
「……杏寿郎ーー、」
鬼の胆力を上回る力で、強引に抱き寄せられた。
背骨が、肋骨が、悲鳴をあげる。
「ーー生きろ、猗窩座」
「……!」
名を、呼ばれた。
そう認識したのと、唇が重ねられたのはほぼ同時。
片手で頭を抱え込まれ、逃すまいと角度をつけて深く口付けられる。
軽く口を開くと、容赦なく舌が入り込んできた。
鬼の牙など意に介さず口腔内を弄り、水音をたてて舌を吸ってくる。
…熱い。甘い。
与えられる熱に浮かされ、思考が溶かされていく。
杏寿郎から触れてくることすら初めてなのに、名前……名前を…
「っふ…、きょ…じゅろ…、待っ…!」
性急な口吸いに立場が逆転しそうな危うさを感じて、猗窩座は大混乱に陥りながらも流されないように相手の顔を手で押し退けた。
「んぐ、……どうした。何故駄目なんだ」
いやいきなり男前すぎるだろう!
というかその不貞腐れた顔はなんだ可愛すぎて苦しいのだがそういうことではなくて!
猗窩座は両手で煉獄の頬を挟み、ぐいと顔を近づけた。
「い、今お前っ…名前を……なんでっ!」
顔に熱が集中しているのが自分でもわかる。
あわあわと取り乱しながら訊ねると、今度は煉獄の顔がじわじわと赤くなっていく。
たらりと汗を滲ませ、視線を逃しながら豪快なこの男にしては珍しく口籠る。
「…す、すまない。勢いで…」
「謝るな、俺は嬉しかったぞ!もう一度呼んでくれ!」
「う……それはそうと!君は俺のものではなかったのか?勝手に死んでいいはずがないだろう!」
はぐらかすように大声を出す様が堪らなく愛おしい。
自然と、笑いが零れる。
本当に杏寿郎は凄い。
固めた決意すら容易く覆して、鬼である俺に誇れる道を歩めと言う。…生きろと言う。
過去は過去。
変えることなどできないから、乗り越えてその先に目を向ける。
……どことなく、恩人である慶蔵と似ている気がして。
また、俺は貴方に救われるーー
「……そうだったな、俺は杏寿郎のものだ。ならば、俺の道とやらをお前も共に探してくれるのだろうな?」
「当然だろう。君を引き留めた責任はとる。」
右の隻眼が、深い印象を称えて見つめてくる。
互いの視線が絡まり合うと、煉獄は少し恥ずかしそうに、にこりと笑った。
「共に生きよう、猗窩座。俺は、君を信じる」
「ーー、」
なんの奇譚もなく放たれたその言葉に、胸が震えた。
眼球をやけに熱いものが覆っていき、呆気なく瞼の淵から溢れていく。
悲しくなどないのに、それは次々と込み上げてくる。
涙なんて流したのは何百年ぶりで、止め方も忘れてしまった。
頬を濡らしながらも、猗窩座は小さく頷く。
「…ああ。今度こそ、守ってみせよう」
これが贖罪になるかはわからないし、そう都合よくはいかないだろう。
それでも。
太陽のような温かな笑顔に、赦された気がした。
fin.