想い、届く。
宿屋の一室。
煉獄は胡座をかいて座り、障子を開け放った窓から夜空を見上げていた。
どんよりと重く垂れ込んだ雲に呑まれて、月や星は姿を現してはすぐに隠されていく。
まだらに分厚い雲は、天候の不安定さを物語っていたが雨は降っていない。
そのとき、知っている鬼の気配に煉獄は一度瞬きをする。
どうやら降られる前に到着したようだ。
きっと彼のことだから、その辺の窓から入ってくるだろうと思い窓枠から身を離しておくと、反対側の廊下につながる襖が無遠慮に開かれた。
「来たぞ、杏寿郎」
振り返ると、人間に擬態した行商人風の出立ちの猗窩座がいた。
てっきり日が沈んですぐに来るかと思い、煉獄も任務明けの睡眠もそこそこにこの宿屋に入ったのだが、既に夜は更けている。
「思ったより遅かったな。何かあったのか?」
猗窩座は先日、ある機会を経て鬼舞辻無惨の支配から外れている。
そのことで何か厄介ごとに巻き込まれる可能性は十分に考えられてそう訊ねるが、彼は軽くかぶりを振って部屋の中央の机にごとりと酒瓶を置いて座った。
「こいつを調達していた」
「…君、酒を飲むのか」
鬼が水分を摂取するという状況は俄かに想像し難い。ましてや酒など嗜好品だ。
違和感しかないちぐはぐな取り合わせに、訝しげな視線を酒瓶へと注ぐ。
「これはお前への手土産だ。」
こちらの表情に苦笑を返し、猗窩座は手に提げていた風呂敷から徳利とお猪口をふたつ取り出した。
「せっかく杏寿郎と会うというのに、手ぶらなど不粋だろう」
「む…。すまないが、俺は手ぶらだ」
「元よりこれは返礼のつもりだ。情報のほうは得られたか?」
猗窩座が酒瓶から徳利へと中身を移しながら訊ねると、煉獄は小さく頷く。
「君のことは、御館様及び他の柱たちにも説明させてもらった」
「構わん。それで杏寿郎の立場は大事ないのか?」
「無論、壮絶な物議を醸したが、皆俺の証言を信じてくれた」
「ほう…さすがの人望だな。普段の行いの賜物だろう」
「…ときに、珠世という人物を君は知っているか?」
その名は、産屋敷耀哉の口から発せられた。
支配から抜けることができたのなら、彼女が力になれるかもしれない、と。
探るようにその名を口にすると、猗窩座は驚いた風もなく鷹揚に首肯した。
「ああ、逃れ者のことだろう。見つけ次第始末するよう命じられていた。どこに隠れていたのかと思えば……鬼狩り側にいたのか」
特に関心もなさそうに机に頬杖を突き、徳利からこちらのお猪口に酒を注ぐ猗窩座。
彼の仕草や表情のひとつひとつを注視しながら、慎重に口を開いた。
「…その人物は、ある薬をつくろうとしているのだがーー」
「鬼舞辻無惨」
「ーー!」
唐突に、猗窩座が脈絡なく横槍を入れてきた。
その発せられた単語が意味するところに、煉獄は反射的に眼前の鬼を凝視する。
「杏寿郎が何を危惧しているのかくらいわかる。俺が完全に支配から外れているのか、確信が持てないのだろう。」
言いながら、猗窩座はくすりと笑った。
「お前を守ると誓った日に既に試したが、無惨様の名を口にしても見ての通り消滅していない。鬼側にこの会話の情報は漏れないから安心しろ」
「君…、」
臆面なく言ってのける相手の様子に絶句し、文字どおり頭を抱えた。
「どうした。安堵のあまり言葉もないか」
にこにこと訊ねてくる猗窩座。
いろんな感情がない混ぜになって、顔が上げられなくなってしまう。
少し自身を落ち着かせてから、煉獄はお猪口の酒をひと息に煽った。
「…悪戯に危険な橋を渡って、本当に死んだらどうする。」
確かにあのとき、彼はすべてを終わらせる覚悟で俺に会いにきた。万一消滅したところで、きっと早急に露見できてよかったなどと、後悔のひとつもしないで潔く散るのだろう。
ことの重大さに気付いていない鬼を、怒りと慈愛を込めて睨み上げた。
「情報など、漏れたところでどうにでもなるよう伝えるまでだ。しかし、君自身の存亡が危ぶまれるような大事をひとりで試したことに、俺は強い憤りを禁じ得ない」
「……す、すまん」
「安堵だと?…ああ、大いに安堵したとも。一歩間違えればもう会えなかった君と、またこうして言葉を交わすことができるのだからな」
「杏寿郎…怒っているのか…?」
たじろぎながら控えめに訊ねつつ、猗窩座は引き攣り笑いをもってこちらの様子を窺い、酒を足してくる。
煉獄は胡座をかいて座り、障子を開け放った窓から夜空を見上げていた。
どんよりと重く垂れ込んだ雲に呑まれて、月や星は姿を現してはすぐに隠されていく。
まだらに分厚い雲は、天候の不安定さを物語っていたが雨は降っていない。
そのとき、知っている鬼の気配に煉獄は一度瞬きをする。
どうやら降られる前に到着したようだ。
きっと彼のことだから、その辺の窓から入ってくるだろうと思い窓枠から身を離しておくと、反対側の廊下につながる襖が無遠慮に開かれた。
「来たぞ、杏寿郎」
振り返ると、人間に擬態した行商人風の出立ちの猗窩座がいた。
てっきり日が沈んですぐに来るかと思い、煉獄も任務明けの睡眠もそこそこにこの宿屋に入ったのだが、既に夜は更けている。
「思ったより遅かったな。何かあったのか?」
猗窩座は先日、ある機会を経て鬼舞辻無惨の支配から外れている。
そのことで何か厄介ごとに巻き込まれる可能性は十分に考えられてそう訊ねるが、彼は軽くかぶりを振って部屋の中央の机にごとりと酒瓶を置いて座った。
「こいつを調達していた」
「…君、酒を飲むのか」
鬼が水分を摂取するという状況は俄かに想像し難い。ましてや酒など嗜好品だ。
違和感しかないちぐはぐな取り合わせに、訝しげな視線を酒瓶へと注ぐ。
「これはお前への手土産だ。」
こちらの表情に苦笑を返し、猗窩座は手に提げていた風呂敷から徳利とお猪口をふたつ取り出した。
「せっかく杏寿郎と会うというのに、手ぶらなど不粋だろう」
「む…。すまないが、俺は手ぶらだ」
「元よりこれは返礼のつもりだ。情報のほうは得られたか?」
猗窩座が酒瓶から徳利へと中身を移しながら訊ねると、煉獄は小さく頷く。
「君のことは、御館様及び他の柱たちにも説明させてもらった」
「構わん。それで杏寿郎の立場は大事ないのか?」
「無論、壮絶な物議を醸したが、皆俺の証言を信じてくれた」
「ほう…さすがの人望だな。普段の行いの賜物だろう」
「…ときに、珠世という人物を君は知っているか?」
その名は、産屋敷耀哉の口から発せられた。
支配から抜けることができたのなら、彼女が力になれるかもしれない、と。
探るようにその名を口にすると、猗窩座は驚いた風もなく鷹揚に首肯した。
「ああ、逃れ者のことだろう。見つけ次第始末するよう命じられていた。どこに隠れていたのかと思えば……鬼狩り側にいたのか」
特に関心もなさそうに机に頬杖を突き、徳利からこちらのお猪口に酒を注ぐ猗窩座。
彼の仕草や表情のひとつひとつを注視しながら、慎重に口を開いた。
「…その人物は、ある薬をつくろうとしているのだがーー」
「鬼舞辻無惨」
「ーー!」
唐突に、猗窩座が脈絡なく横槍を入れてきた。
その発せられた単語が意味するところに、煉獄は反射的に眼前の鬼を凝視する。
「杏寿郎が何を危惧しているのかくらいわかる。俺が完全に支配から外れているのか、確信が持てないのだろう。」
言いながら、猗窩座はくすりと笑った。
「お前を守ると誓った日に既に試したが、無惨様の名を口にしても見ての通り消滅していない。鬼側にこの会話の情報は漏れないから安心しろ」
「君…、」
臆面なく言ってのける相手の様子に絶句し、文字どおり頭を抱えた。
「どうした。安堵のあまり言葉もないか」
にこにこと訊ねてくる猗窩座。
いろんな感情がない混ぜになって、顔が上げられなくなってしまう。
少し自身を落ち着かせてから、煉獄はお猪口の酒をひと息に煽った。
「…悪戯に危険な橋を渡って、本当に死んだらどうする。」
確かにあのとき、彼はすべてを終わらせる覚悟で俺に会いにきた。万一消滅したところで、きっと早急に露見できてよかったなどと、後悔のひとつもしないで潔く散るのだろう。
ことの重大さに気付いていない鬼を、怒りと慈愛を込めて睨み上げた。
「情報など、漏れたところでどうにでもなるよう伝えるまでだ。しかし、君自身の存亡が危ぶまれるような大事をひとりで試したことに、俺は強い憤りを禁じ得ない」
「……す、すまん」
「安堵だと?…ああ、大いに安堵したとも。一歩間違えればもう会えなかった君と、またこうして言葉を交わすことができるのだからな」
「杏寿郎…怒っているのか…?」
たじろぎながら控えめに訊ねつつ、猗窩座は引き攣り笑いをもってこちらの様子を窺い、酒を足してくる。