彼方から 第四部 第六話
彼方から 第四部 第六話
『【天上鬼】として生まれた男は、
【目覚め】として現れた女を愛した、か――――
これは、何を意味しているのだろうな……』
薄い笑みを浮かべながら……
皆を集め問い掛けをする、ラチェフの顔が浮かぶ。
自由都市リェンカ――
その事実上の若き支配者と言われるラチェフの屋敷。
城と見紛うばかりの豪奢な造りの屋敷の廊下を、ケイモスは荒く靴音を立てながら、とある場所に向かい歩いていた。
『ここに、一個の小石がある』
一人語りのような、ラチェフの問い掛け。
何の興味も関心もなかったが、何故だか脳裏に残っている。
『何の動きもない静かな水面に、
これを落としたら――どうなる?』
室内に設えられた大きな貯水槽の、鏡面のように凪いだ水面に視線を落とし、ラチェフはそんなことを言いながら、摘まみ持った小さな石を落としていた。
『最初は、一点のみの変化』
小さな水音を立て、貯水槽の底へと沈みゆく小石。
『だが、その波紋は徐々に広がって……
やがて水面全体を覆い尽くす――』
言葉通り、輪を描き静かに広がる波紋――
『ノリコは、この小石だ。
彼女という異分子が、この世界へ入り込むことによって、
少しずつ、少しずつ――目に見えぬ変化が進んでいく
【天上鬼】を【目覚め】させるという、方向に……』
水槽の淵へとぶつかり、再び中心へと戻り――
繰り返し繰り返し……外へと向かう紋と内へと戻ろうとする紋は互いにぶつかり合い、やがて紋は消え、只、水面を揺らすだけとなってゆく――
その様を見詰め語る瞳は、揺れる水面を見詰めているようでもあり、底に沈んだ小石を見据えているようにも見える。
薄い笑みを湛えたまま、一息、間を置くようにゆっくりと振り向くラチェフ……
『タザシーナの報告によると、ノリコの危機に対した時……
イザークの【天上鬼】としての力が、すさまじく現れたそうだ』
落ち着いた声音と、柔和な笑みの中……
その瞳に、冷たい光が宿ってゆくのが分かる。
『では、もし……ノリコを失くしたら、
無残に死なれでもしたら……
彼は、どうなるのだろうな――』
残酷な言葉を……
『悲しむか、怒るか――それとも、狂うか……』
心無く冷酷な推測を、口にする。
『そして【天上鬼】が、この世に生まれるのか――――』
恰も、それこそが『望み』であるかのように……
***
「知らねーよ」
ラチェフの問い掛けなど――
「タザシーナって女が帰ってから、おれ達を前に推理を楽しんでやがったが……おれは理屈など、どうでもいい」
その『答え』など、ケイモスにとってはどうでもいいことでしかなかった。
なのに、その『どうでもいい話』を、何故こんなにも良く覚えているのか……
理由は単純。
己に初めて、『敗北感』を味合わせた男――
『イザーク』の話だったからに過ぎない。
「カルコの町で勝ち誇った顔して、おれを見下しやがった男――イザーク」
あの日、あの時の戦いは……あの時のイザークの顔は――今でも脳裏に焼き付いている。
何故あの男は、あんなにも強かったのか……
タザシーナの報告でようやく合点がいった。
「化物の成りそこないが、人間づらしやがって……」
【天上鬼】……
そんな、『言い伝え』でしか聞いたことのない『化物』だったとは――――
「後悔させてやる」
忌々し気に、言葉を吐き捨てる。
「てめぇなんざより、おれの方がずっと上位にいるってこと、思い知らせてやる」
相手が『化物』だろうがそうでなかろうが、己より『強い者』がいる、その事が許せない。
己の『望み』を果たす為、我欲を、満たす為……
只、それだけの為に――
「化物に変わるのはそれからにしろ、そして、おれの足元に不様に跪くがいい――!!」
ケイモスは己の内に募る『負の念』の全てをぶつけるかのように、吐き出した言葉と共に眼前に現れたドアを蹴り開けていた。
キィ! キィ! キィ!
キィ! キィ!
キィ! キィ!
「あ……あ――」
チモの、怯えた甲高い鳴き声が、部屋中に響く。
「こ……こわがるこたねぇ、大丈夫だ、何も――し、しねぇ」
必要以上に大きな音を立て、侵入してきた『人間』に怯え、威嚇し、鳴き声を上げ逃げ惑う『チモ』を、ドロスが必死に宥め、落ち着かせようとしている。
「ケッ ケイモス! いきなり大きな音、た……た……立てるな! お……おらのチモ達が、びっくりするど!」
どれだけ宥めようとも、鳴き声を上げ続けるチモ。
普段はおとなしいチモを、激しく怯えさせた張本人に向かい、ドロスは珍しく怒りを露にしていた。
半地下となっている部屋に下りる階段を、悠々と降りてくるケイモス。
その顔に、反省の色はおろか『悪かった』という思いの欠片すらも、見えない。
それどころか、怒るドロスに歩み寄り、いきなりその頭を鷲掴みにすると、
「なにが、『おらの』だ」
顔を寄せ、
「チモはてめえのもんじゃねーだろ……え?」
嘲笑を浮かべ、凄み……
「ひっこんでな!!」
怒声と共に彼の巨体を軽々と、突き飛ばしていた。
「ひ――」
重く、大きな音と共に……床に転がされる。
叩きつけられた痛みに、顔が歪む。
「……う、う」
起き上がろうとするその背に、ケイモスの冷たく刺すような、見下した視線を感じる。
自分の方が彼よりも『弱く』、『格下』なのだという思いが、頭を過る。
事実……ケイモスのように『能力者』でもなければ、他の傭兵たちのように戦うことも出来ない。
屋敷の主が今、必要としている『力』は、何も持っていない……
それが分かっているからなのだろうか……
手酷く、乱暴な扱いを受けても、受けた理不尽に悔しい思いをしても、言い返すどころか睨み返すことさえ、ドロスにはできなかった。
惨めな想いを抱きながら、床に手をつき上半身を上げる……その視界に、服の裾から覗く綺麗な足先と、柔らかな衣擦れの音が、耳に入ってくる。
「タザシーナ……」
美しい、シルエットの持ち主の名を、口にする。
嬉しそうに、笑みを浮かべながら……
だが――――
「チモの鳴き声がうるさいわ。何とかして下さらない?」
その唇から放たれたのはただ、『冷たさ』だけが伝わる言葉だった。
床に倒れているドロスに、何の関心も示さない……
二人……行動を共にした時期もあったはずなのに、彼女の瞳に宿る光には、彼に対する『関心』など微塵も感じられない。
それどころか、嫌なものでも見るかのように眉を顰め、高慢に、見下すだけ……
直ぐに視線を逸らし、眼前を悠然と歩き去る。
己の見場を気にするかのように、その美しさを見せつけるかのように――金の長い髪を、撫でつけながら……
作品名:彼方から 第四部 第六話 作家名:自分らしく