移り火
幾重にも重なった枝葉のおかげで、昼日中でも陽光が差し込むことのない雑木林。
猗窩座は、身動きのとれない日中はここで鍛錬をして過ごすことが多かった。
近い距離で乱立した広葉樹に囲まれた一帯は鬱蒼としており、夏でもどこかひんやりと涼しさを感じる程で。
冬に片足を突っ込んだこの季節は、冷えきった空気が沈澱し吐く息すら白くなる。
目を閉じて神経を研ぎ澄ませ、あらゆる生命の動きを感じとる。
その対象は鳥や小動物はもちろん、落ち葉に隠れる虫に至るまで様々だ。
生命はすべて、生きるために戦わねばならない。どんなに小さな個体が身を守るために息を潜めていようとも、闘気は骸でない限り存在するのだ。
「……、」
ゆっくり瞼を押し上げ、気になる気配のほうに身体をひらく。
四足歩行の動物だが、明らかに動きが悪い。
おそらく怪我でもしているのだろう。
人に擬態する際に使う荷物から手拭いを引っ張り出し、手頃な太さの枝を拾って足を向けた。
世の中は弱肉強食だ。自然界ならば尚のことそうだろう。
以前ならば、手傷を負うような弱い動物は淘汰されて然るべしと考えていた。
しかし、今はそう思っても、その考えを上回る別の想いのほうが強い。
少し歩くと、ひょこひょこと後脚を不自然に浮かせながら身体を前に進める鹿を視界が捉えた。
「…ふむ。脚をやられてはそう長くはもつまい」
小さく呟くと、離れた位置にいた鹿ははっとしたように耳を動かしこちらに顔を向ける。
途端、がさがさと落ち葉を蹴散らしながら必死に逃走を図る鹿に難なく追いつき、己の身体ほどある胴を抱えると患側を上にして豪快に横倒しにした。
四つ足の動物の場合、注意すべきは後脚。
胴が起き上がらないよう尻の下に敷き、元気なほうの後脚を足で固定する。
患部をざっと確認すると、関節部位から骨が飛び出していた。
折れたまま無理に動いたことにより、皮を突き破って露出してしまったのだろう。
猗窩座はとりあえずと思い持ってきた枝を見遣る。
役不足感は否めないが、ないよりはマシだと判断し、適当な長さに折った。
それをひとまず脇に置くと、逃げ出そうと身体を突っ張る鹿の折れた脚に手を伸ばし、飛び出た骨を素手でぐっと押し込む。
跳ねるように暴れるそいつを抑えつつ、あるべき場所に骨を強引に持っていくと、枝をあてて手早く手拭いを巻き付けた。
きつく縛り、横っ腹から退いてやる。
鹿は一目散に雑木林の奥へとすっ飛んでいった。
申し訳程度の添え木と、たいして伸びもしない布での応急処置。
いずれ緩んで外れてしまうだろうが、しばらくはもつ。
そのあいだに少しでも傷が癒えればいい。
「……」
動物なんぞが礼を言うわけもなく、ひとりぽつんと取り残された。
回復する前に狐や熊にやられて命を落とすことも十分に考えられるが、そのときはそのときだ。
強くなる努力もしない弱者は許容しがたいことに変わりはない。
しかし病気や怪我は別だ。治せるものは治したほうがいい。
人の記憶を取り戻してからというもの、そういう考え方をするようになった。
煉獄の左目を潰してしまったことに強い後悔の念を抱いたのも、その考え方が根底に芽生えてからだ。
しかし、彼は五体満足でなくなっても諦めることなく、更なる高みを目指しハンデを乗り越えようと邁進している。
俺の頸を斬るためと言っていたが、絆されずに使命を果たそうとするその意志の強さもいい。
…杏寿郎。
やはりあいつは違う。
あいつといると、まるで熱が移るようだ。
心に忘れかけていた火を灯してくれるような、堪らない感覚。
どれだけ深い悲しみに暮れようと、時は立ち止まらない。だからこそ前を向いて強く生きるという考え方にも好感が持てる。
想いを馳せていると無性に会いたくなってしまう。
鹿の手当てをしたことを言えば、何か言葉をくれるだろうか。
考えるだけでむずむずと口元から締まりがなくなっていく。
日没までまだ間があることに歯痒さを覚えつつ、浮き足立った気分を鎮めるために再び鍛錬に打ち込むのだった。
+++
その日の晩。
まるで親に褒めてもらうために報告する童のようだと自覚を持ちながら、猗窩座は巡回中の煉獄のもとを訪れた。
「よう、杏寿郎」
「君か。どうした、やけに嬉しそうだな」
どれほど顔に出ているのかはわからないが、苦笑する煉獄の様子からして相当なのだろう。
まあそれでも構わない。杏寿郎にならどんな表情だって見せてやる。
「今日の昼間、怪我をした鹿を見つけてな」
「ほう!……まさか、食ったのか?」
はっとしたように真顔で訊ねてくる相手に、言葉を失った。
「……」
「…美味かったか?」
恐る恐るといった調子で重ねて訊ねられ、猗窩座は半ば唖然としつつもふるふると首を横に振った。
「……食わん。手当てした。褒めろ」
小さい声で短い言葉を繋げて伝えると、ぱっと花がひらくような眩しい笑顔が広がった。
「それは素晴らしい善行だ!行為に及びたくともなかなか身体は動かないものだが、君は優しい心を持っているんだな!」
「……」
猗窩座は、身動きのとれない日中はここで鍛錬をして過ごすことが多かった。
近い距離で乱立した広葉樹に囲まれた一帯は鬱蒼としており、夏でもどこかひんやりと涼しさを感じる程で。
冬に片足を突っ込んだこの季節は、冷えきった空気が沈澱し吐く息すら白くなる。
目を閉じて神経を研ぎ澄ませ、あらゆる生命の動きを感じとる。
その対象は鳥や小動物はもちろん、落ち葉に隠れる虫に至るまで様々だ。
生命はすべて、生きるために戦わねばならない。どんなに小さな個体が身を守るために息を潜めていようとも、闘気は骸でない限り存在するのだ。
「……、」
ゆっくり瞼を押し上げ、気になる気配のほうに身体をひらく。
四足歩行の動物だが、明らかに動きが悪い。
おそらく怪我でもしているのだろう。
人に擬態する際に使う荷物から手拭いを引っ張り出し、手頃な太さの枝を拾って足を向けた。
世の中は弱肉強食だ。自然界ならば尚のことそうだろう。
以前ならば、手傷を負うような弱い動物は淘汰されて然るべしと考えていた。
しかし、今はそう思っても、その考えを上回る別の想いのほうが強い。
少し歩くと、ひょこひょこと後脚を不自然に浮かせながら身体を前に進める鹿を視界が捉えた。
「…ふむ。脚をやられてはそう長くはもつまい」
小さく呟くと、離れた位置にいた鹿ははっとしたように耳を動かしこちらに顔を向ける。
途端、がさがさと落ち葉を蹴散らしながら必死に逃走を図る鹿に難なく追いつき、己の身体ほどある胴を抱えると患側を上にして豪快に横倒しにした。
四つ足の動物の場合、注意すべきは後脚。
胴が起き上がらないよう尻の下に敷き、元気なほうの後脚を足で固定する。
患部をざっと確認すると、関節部位から骨が飛び出していた。
折れたまま無理に動いたことにより、皮を突き破って露出してしまったのだろう。
猗窩座はとりあえずと思い持ってきた枝を見遣る。
役不足感は否めないが、ないよりはマシだと判断し、適当な長さに折った。
それをひとまず脇に置くと、逃げ出そうと身体を突っ張る鹿の折れた脚に手を伸ばし、飛び出た骨を素手でぐっと押し込む。
跳ねるように暴れるそいつを抑えつつ、あるべき場所に骨を強引に持っていくと、枝をあてて手早く手拭いを巻き付けた。
きつく縛り、横っ腹から退いてやる。
鹿は一目散に雑木林の奥へとすっ飛んでいった。
申し訳程度の添え木と、たいして伸びもしない布での応急処置。
いずれ緩んで外れてしまうだろうが、しばらくはもつ。
そのあいだに少しでも傷が癒えればいい。
「……」
動物なんぞが礼を言うわけもなく、ひとりぽつんと取り残された。
回復する前に狐や熊にやられて命を落とすことも十分に考えられるが、そのときはそのときだ。
強くなる努力もしない弱者は許容しがたいことに変わりはない。
しかし病気や怪我は別だ。治せるものは治したほうがいい。
人の記憶を取り戻してからというもの、そういう考え方をするようになった。
煉獄の左目を潰してしまったことに強い後悔の念を抱いたのも、その考え方が根底に芽生えてからだ。
しかし、彼は五体満足でなくなっても諦めることなく、更なる高みを目指しハンデを乗り越えようと邁進している。
俺の頸を斬るためと言っていたが、絆されずに使命を果たそうとするその意志の強さもいい。
…杏寿郎。
やはりあいつは違う。
あいつといると、まるで熱が移るようだ。
心に忘れかけていた火を灯してくれるような、堪らない感覚。
どれだけ深い悲しみに暮れようと、時は立ち止まらない。だからこそ前を向いて強く生きるという考え方にも好感が持てる。
想いを馳せていると無性に会いたくなってしまう。
鹿の手当てをしたことを言えば、何か言葉をくれるだろうか。
考えるだけでむずむずと口元から締まりがなくなっていく。
日没までまだ間があることに歯痒さを覚えつつ、浮き足立った気分を鎮めるために再び鍛錬に打ち込むのだった。
+++
その日の晩。
まるで親に褒めてもらうために報告する童のようだと自覚を持ちながら、猗窩座は巡回中の煉獄のもとを訪れた。
「よう、杏寿郎」
「君か。どうした、やけに嬉しそうだな」
どれほど顔に出ているのかはわからないが、苦笑する煉獄の様子からして相当なのだろう。
まあそれでも構わない。杏寿郎にならどんな表情だって見せてやる。
「今日の昼間、怪我をした鹿を見つけてな」
「ほう!……まさか、食ったのか?」
はっとしたように真顔で訊ねてくる相手に、言葉を失った。
「……」
「…美味かったか?」
恐る恐るといった調子で重ねて訊ねられ、猗窩座は半ば唖然としつつもふるふると首を横に振った。
「……食わん。手当てした。褒めろ」
小さい声で短い言葉を繋げて伝えると、ぱっと花がひらくような眩しい笑顔が広がった。
「それは素晴らしい善行だ!行為に及びたくともなかなか身体は動かないものだが、君は優しい心を持っているんだな!」
「……」