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幾星霜の夜明けをゆく(1)

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(一)
【私が居なくなる時は、きっとお前もここには居まい】

かつて師兄《ラオ》は私の目をまっすぐ見てそう言った。微塵のゆらぎもない言葉は、私たちを裂こうとするものへと牙を剥き、死への逃避は許されない運命にある者として、覚悟を示すには充分なものだった。

師兄の頭上にあった鋼の武具はいま、持ち主を失い私の側にある。寺の自室へ持ち帰ったそれに、私は何度も触れようと試みたが、手を伸ばす度に、聞こえるはずのない彼の最期の絶叫が私の頭を満たした。

「……なぜ私だけ、まだ」
恨みがましく、泣きそうな声で武具に問うたところで返事などあるわけがない。彼は、死んだのだ。魂さえ残ることを許されなかったのだ。
師兄、あなたがいないなら私も死んでしまいたいなどとは思わない。ただ約束が破られたことだけが心残りだ。
あなたを問い詰めようにも、私には今あなたが感じられない。己の炎でこの身を痩せ細るほど焦がしてみれば、あなたと同じ苦しみを私も味わえるだろうか。


修練を終えて地上に出ると、しばらくして地平の先から暗い雷雲がやってくる。聞き分けのない子供の癇癪に似た雷鳴。回廊の柱を雷が断続的に照らし、そのたびに斜めに伸びる影を作った。

斜めの影は、私の部屋を訪れる師兄の足元からも伸びていた。
師兄は部屋の入り口の壁を背にして立ち、私が教典を音読する時、私が読み終えるまでその場でじっとしているのが常だった。

「そうして人のを聞いているだけでは身に付かないのでは? クン・ラオ」
「嫌味を言うな。もしや私がここにいては迷惑か?」
「……いえ全く」
音読の間、師兄はしばしば黙ったまま私のことを見つめた。その視線は弟分の監督にしては優しすぎ、私の中の小さな炎を焚きつけるには強すぎた。
次第に彼に焦がされるならば構わないとも思うようになり、ある日伸びた影と影は捻れてひとつになった。


目を閉じて影に思いを馳せるうち、雷鳴は小さくなり始め雲は別の方へと動き出す。全ては流転するのならば、ラオと私はまた出会えるだろうか。ここではない何処かであったとしても。
 
二〇二一年十月二日

(二)
黒曜に炎のごとき赤が舞う
解けぬように解かぬように

揃いの髪紐と聞いて 二〇二一年十月五日

(三)
夕食の時間はとうに過ぎた寺院の廊下を、普段より幾分急ぎ足でゆくラオの姿があった。彼が急いでいるのは、夕方から熱を出し、早々に部屋で休むリュウの様子を見にゆくためだった。

ラオはリュウが横になる寝台まで真っ直ぐ向かい、傍に膝をついて彼に声をかけた。リュウの顔はかなり赤く、見るからに怠くて辛そうな表情を浮かべていたが、返事はしっかりしていた。
リュウの額の上の濡れ手拭いを変えてやりながら、ラオは先ほどリュウを診た医務僧から発熱について「恐らく疲れが原因」と聞いたことを伝える。

ラオの言葉にリュウは天井に向かって軽くため息をつき、潤んだ目を瞬かせて疲れの心当たりがないと言った。
「だからだろう。知らないうちに溜め込んだのが爆発したのさ」
「それって、頭と身体がうまく噛み合ってないのかな。ならこれは知恵熱みたいなものかも」
「知恵熱だと? ……伸びしろがあるのは良いことだが。そういえば、昔もしょっちゅう熱を出してたなリュウは」
「確かに、師兄より丈夫じゃあなかったけどしょっちゅうじゃ、ない。全然」

ラオが揶揄うとリュウはすぐに唇を尖らせる。彼の前にしかあらわれない、負けず嫌いで子どもっぽいリュウの一面に、ラオは堪えきれず噴き出した。と同時に、熱が上がりつつもこちらの軽口に切り返す余裕はあることを確かめられて、ラオは少しばかりほっとした。
「思い出話はまたにしよう。いまはお前の頭を働かせてはいけないからな」
よく休め、とラオはリュウの頬を指の背でそっと撫でた。指先にかかる彼の息は、沸騰した湯から立ち上る蒸気のように熱い。リュウは目を瞑ったまま顔をラオの方に少しだけ傾け、言葉の代わりにラオの指へ唇を軽く押し当ててから彼の顔を見上げた。

(熱の下がったリュウから「あんなに心配そうな顔のラオは久しぶりに見た」とツッコまれるラオがいます)

二〇二一年十月十一日

(四)
春秋冬なくしても毎年必ず歳をとる。
続けよ共にと祈っていた。
 
二〇二一年十月十三日

(五)
『溝の子』は拾われた先で、年長の少年僧から今の名を与えられた。それまで私は自分に名前があるということを全く知らなかった。もちろん周囲の誰も私の名前を知らず、それが当然だと思われていた。
私はある日どこからか道端に流れ着いた、呼び名すら必要とされない孤児のひとりだった。
「お前は今日からリュウ・カンだ。良いな?」
「はい、クン・ラオ」
誰かに何かを聞かれたら、頷くのみでは不十分で「はい」または「いいえ」の返事が必要だということも教えられた。
「もうひとつ、私はお前の師兄だ」
「師兄とはなに? クン・ラオとは違う?」
「名前のようなものだよ。自分より歳の大きい者は皆二つめの名前を持っているんだ。いいかリュウ、誰かに師兄の名前を聞かれる時以外は、いつも私を師兄と呼ぶこと」
「えっと……はい、師兄」
「良く出来た。その調子だ」
私のように舌足らずなところは一切ない、良く通る声で師兄に褒められた時のことを昨日のことのように良く覚えている。

「……師兄、何故私にリュウ・カンと名付けを?」
師兄にそう尋ねたのは、あの名付けの日からずいぶん経ってからのことだった。
「そうだな、お前がもう少し大きくなったら教えてやろう」
「大きくっていつまで? もしかして師兄の背を抜いたら教えてくれるとか」
「背丈の話じゃない。それに予言するが、お前は私の背を抜くことはないぞ。今の伸び方からすると、恐らくそうだ」
「そんなの分かるもんか! もしかしたらひと月後には越してるかもしれないのに」
結局師兄には良いようにはぐらかされた。彼の口から詳細を聞きたかった私は、機会を見つけては教えて欲しいとせがんだが、彼から返ってくるのはきまって「大きくなったら」の一言だけだった。
それでも私は負けずに食い下がり、あまりのしつこさに根負けした師兄からなんとか二つだけ聞き出すことに成功した。
ひとつは、私の名は学院の師範たちではなく本当に師兄が考えて付けてくれたこと。
「私がお前の手本になろうというのに、一度でも『溝の子』などと口にした者にお前の名前を決めさせるものかと思ってな」
 もうひとつは、私が名に縛られないように。
「名は確実に人の生に力を及ぼす。必ずしも良いことだけではない。私が力の意味を考えなかった日は無いと言えば、少しは心を寄せてくれるか?」
普段の快活さをどこかへ置いた師兄の表情と、紡がれる言葉の重さに私の口は日没後の花弁のように大人しくなった。

「リュウ。瞑想中に邪魔してごめん。ちょっと良いかな」
背後からコールに声をかけられて、私はゆっくり目を開けた。記憶の波に漂う時間の終わり。 
「ああ。どうした」
「教えてもらいたいことがあるんだ、アルカナについて……」
「良いとも。私で役に立つのであれば、喜んで」