静雄の扱い
ずいぶんなついてるなあ。
とある夜、池袋の街中、お得意様への往診途中。偶然彼らを見かけた岸谷新羅の、最初に抱いた感想がそれだった。
けだるそうに歩くドレッドヘアの男、そしてその後ろを離れずついていくのは腐れ縁の友人、平和島静雄。バーテン服、金髪、サングラス、そのみっつの特徴があまりにも目立つため、遠目にもすぐ気がついた。
静雄を知る者がその特徴を目にした場合、たいていはあわてて逃げてゆく。逃げ出さないまでも近寄らないように注意するだろう。池袋最強の男、自動喧嘩人形とも呼ばれ恐れられている彼が、しかしそのときは人によく慣れたおとなしい犬のようだった。つきあいが長い分、新羅はキレていない状態の静雄も知っているが、それはただ「キレていない静雄」と言うのとは明らかに違ってた。
へえ、と胸のうちで声を上げ、あの男は誰だろうかと興味を持った。声をかけようかどうか迷い、新羅は一度踏みとどまった。
バーテンをやめた静雄が、中学時代の先輩の世話になってテレクラの取り立てをはじめた、という話を思い出したのだ。ならばあのひとが静雄の先輩で、今は上司だという男なのだろう。
あの静雄も、先輩にはああなのか。感心し、すぐに「いやいや」と思い直した。先輩だとか後輩だとか、そんなことは関係ない。誰が相手だろうと頭にくれば殴り倒す、それが静雄だ。グラウンドや屋上に転がる先輩たちを、高校時代は飽きるほど見たじゃないか。
やっぱり声をかけてやろう。
好奇心に駆られた新羅が一歩彼らに近づいたとき、前をゆくドレッドヘアが静雄を振り返って何かを言った。すると、静雄は----。
(へえっ!?)
その声はもしかすると口から出てしまっていたかもしれない。
ひどく希少なものを見たような気がして、新羅は思わず足を止めた。そして、彼らが遠ざかっていくのを固まったままで見送った。
静雄に田中トムという名の上司を紹介されたのは、それからずっとあとのことだった。
「あんなに静雄の扱いがうまいひとを初めて見たよ」
高級マンションの一室、ゆったりとしたソファに腰掛け、新羅は背後で水を飲む折原臨也に向けて言った。静雄と同じく高校時代の同窓生で、新羅の数少ない友人のひとりである。食卓に掛けてペットボトルの水を飲む彼は、先ほど新羅の同居人であるセルティを訪ねてきたのだが、彼女がちょうど留守だったため、ここで腰を落ちつけて待っているのだ。仕事ならいつもセルティに直接電話して依頼しているのに、こんなことはめずらしい。
また何か企んでるのかな、と思わないでもないが、追求したところで彼が正直に話すはずもない。だから新羅は特に気にせず、せっかくだから、と先日紹介された静雄の上司の話をすることにした。
「彼に対してはあの静雄が従順なんだよ。いや、頭にくればそりゃあキレるんだろうけどさ、彼はキレかけた静雄をおさえることができるわけ。ほら、おれなんか見てるだけだし、きみは怒らせるばっかりだけど、あのひとはうまいことなだめるんだ。ああいうときに口出しするとよけいに怒っちゃうのにさ。言葉の選び方がいいのかな。間合いの取り方がいいのかも。いや、静雄のことをよく知ってるんだろうね。あれほどわかってるひとは他にいないかもしれない」
聞いているのかいないのか、臨也は相づちも打たずに窓の外を見ていたが、最後のところで視線をすうっと新羅に向けた。他人に鋭い印象を与える瞳は空と同じ夜の色、口元には不敵な笑みが浮かべられている。
「それは違うな。一番知ってるのはおれだよ。おれはシズちゃんのことが不快でたまらない。大嫌いだ。あいつをつぶすために、自分へ被害が及ばないように、ありとあらゆる情報を集めたんだよ。だから、平和島静雄っていう人間のことを誰よりもわかってる。嫌いだからなんでも調べたし、なんでも知ってるんだ。シズちゃんみたいなやつのことをここまで調べあげるのはおれくらいのものだと思うね」
旧友のことをよくもここまで言えたものだ、と考えさし、しかし新羅は彼らが仲よくしていた時期など一瞬たりともなかったのだという事実を思い出した。
「あいかわらずだなあ、臨也。でも、今回はきみの負けだと思うよ。だって、調べなくても知ってるってところがすごいんじゃないか。あの静雄と始終一緒にいて、経験値をつんで、理解して、たぶん殴られたことがない。ものすごいことだよ、これは」
臨也はなぜか不快そうに眉をゆがめた。負け、という言葉が癇に障ったのだろうか。そんなことで素直にムッとするようなかわいい男ではなかったはずだが。
「あのトムさんていうひとは、自分が慎重だから静雄にキレられたことがないんだって思ってるふうだったけど、違うと思うな。たぶん、いや絶対、静雄は彼を殴らない」
新羅には確信があった。あの日のことを思い出すと、今でも信じられない気持ちになる。今まさにそれを告げようとしたのだが、臨也の声に遮られた。
「絶対ってことはないだろう。あのシズちゃんだよ?」
「ないね。いや、そりゃあトムさんてひとが人道に外れたことをしたり、静雄をキレさせるような理屈っぽいことを言い出したら話は別だけど。あのひとはそもそもそういうことをしない人間なのさ」
「は? どういうこと?」
「もともと静雄に殴られる要素を持ってないってこと。ま、慎重っていうのもある程度は必要なんだろうけど。静雄に殴られる素質がないんだよ」
あれ、素質っていうのはこの場合おかしいか、とつぶやいたが、その素質を誰よりも持っている眼前の友人は返事をしない。
「うん、とにかく、だから殴らないだろうね。殴らないよあれは。だってさ、これはおれが前に偶然見かけたんだけど……」
新羅はそこで言葉を区切り、背後の友人を振り返った。口元が勝手にゆるんでしまう。ここからがおもしろいのである。その、根拠が。
「あのトムさんてひとに話しかけられたとき、静雄はものすごくかわいい顔で笑ってたんだよ!」
やや興奮して自らの目にした事実を告げると、臨也はうつくしい形の眉をゆがませた。さすがに驚いたのだろう。想像もつかないのだろう。
新羅は先ほどよりもさらに興奮して続けた。
「びっくりしただろう? 想像できないだろう? 静雄のかわいい顔! おれだって信じられないよ。あの野獣みたいなやつが! あのとき、ご主人さまに顎をすりすりされた小型犬みたいな顔で笑ったんだよ。肉をもらった土佐犬じゃないんだよ? 小型犬、チワワとか、コーギーとか、ヨークシャーテリアとか、あんなの! ああ、こんなこと静雄の前で言ったらおれは殺されるだろうなあ。確実に全身の骨をへし折られて、息の根を止められるんだろうなあ。からかいたい、でもセルティをのこして死にたくない。だから臨也、これはきみにしか言わないことにするよ」
高揚に任せて言葉を連ね、戒めから解放されたような気分で振り返ると、臨也は無表情に一点を見つめ、何かを考え込んでいるようだった。いつもの悪巧みの最中なのかと思ったが、どうもそういうふうではない。
「どうしたんだい? 大笑いするかと思ったのに」
予想外の反応に少々がっかりして問いかけたら、臨也はペットボトルの蓋を閉めて立ち上がった。
とある夜、池袋の街中、お得意様への往診途中。偶然彼らを見かけた岸谷新羅の、最初に抱いた感想がそれだった。
けだるそうに歩くドレッドヘアの男、そしてその後ろを離れずついていくのは腐れ縁の友人、平和島静雄。バーテン服、金髪、サングラス、そのみっつの特徴があまりにも目立つため、遠目にもすぐ気がついた。
静雄を知る者がその特徴を目にした場合、たいていはあわてて逃げてゆく。逃げ出さないまでも近寄らないように注意するだろう。池袋最強の男、自動喧嘩人形とも呼ばれ恐れられている彼が、しかしそのときは人によく慣れたおとなしい犬のようだった。つきあいが長い分、新羅はキレていない状態の静雄も知っているが、それはただ「キレていない静雄」と言うのとは明らかに違ってた。
へえ、と胸のうちで声を上げ、あの男は誰だろうかと興味を持った。声をかけようかどうか迷い、新羅は一度踏みとどまった。
バーテンをやめた静雄が、中学時代の先輩の世話になってテレクラの取り立てをはじめた、という話を思い出したのだ。ならばあのひとが静雄の先輩で、今は上司だという男なのだろう。
あの静雄も、先輩にはああなのか。感心し、すぐに「いやいや」と思い直した。先輩だとか後輩だとか、そんなことは関係ない。誰が相手だろうと頭にくれば殴り倒す、それが静雄だ。グラウンドや屋上に転がる先輩たちを、高校時代は飽きるほど見たじゃないか。
やっぱり声をかけてやろう。
好奇心に駆られた新羅が一歩彼らに近づいたとき、前をゆくドレッドヘアが静雄を振り返って何かを言った。すると、静雄は----。
(へえっ!?)
その声はもしかすると口から出てしまっていたかもしれない。
ひどく希少なものを見たような気がして、新羅は思わず足を止めた。そして、彼らが遠ざかっていくのを固まったままで見送った。
静雄に田中トムという名の上司を紹介されたのは、それからずっとあとのことだった。
「あんなに静雄の扱いがうまいひとを初めて見たよ」
高級マンションの一室、ゆったりとしたソファに腰掛け、新羅は背後で水を飲む折原臨也に向けて言った。静雄と同じく高校時代の同窓生で、新羅の数少ない友人のひとりである。食卓に掛けてペットボトルの水を飲む彼は、先ほど新羅の同居人であるセルティを訪ねてきたのだが、彼女がちょうど留守だったため、ここで腰を落ちつけて待っているのだ。仕事ならいつもセルティに直接電話して依頼しているのに、こんなことはめずらしい。
また何か企んでるのかな、と思わないでもないが、追求したところで彼が正直に話すはずもない。だから新羅は特に気にせず、せっかくだから、と先日紹介された静雄の上司の話をすることにした。
「彼に対してはあの静雄が従順なんだよ。いや、頭にくればそりゃあキレるんだろうけどさ、彼はキレかけた静雄をおさえることができるわけ。ほら、おれなんか見てるだけだし、きみは怒らせるばっかりだけど、あのひとはうまいことなだめるんだ。ああいうときに口出しするとよけいに怒っちゃうのにさ。言葉の選び方がいいのかな。間合いの取り方がいいのかも。いや、静雄のことをよく知ってるんだろうね。あれほどわかってるひとは他にいないかもしれない」
聞いているのかいないのか、臨也は相づちも打たずに窓の外を見ていたが、最後のところで視線をすうっと新羅に向けた。他人に鋭い印象を与える瞳は空と同じ夜の色、口元には不敵な笑みが浮かべられている。
「それは違うな。一番知ってるのはおれだよ。おれはシズちゃんのことが不快でたまらない。大嫌いだ。あいつをつぶすために、自分へ被害が及ばないように、ありとあらゆる情報を集めたんだよ。だから、平和島静雄っていう人間のことを誰よりもわかってる。嫌いだからなんでも調べたし、なんでも知ってるんだ。シズちゃんみたいなやつのことをここまで調べあげるのはおれくらいのものだと思うね」
旧友のことをよくもここまで言えたものだ、と考えさし、しかし新羅は彼らが仲よくしていた時期など一瞬たりともなかったのだという事実を思い出した。
「あいかわらずだなあ、臨也。でも、今回はきみの負けだと思うよ。だって、調べなくても知ってるってところがすごいんじゃないか。あの静雄と始終一緒にいて、経験値をつんで、理解して、たぶん殴られたことがない。ものすごいことだよ、これは」
臨也はなぜか不快そうに眉をゆがめた。負け、という言葉が癇に障ったのだろうか。そんなことで素直にムッとするようなかわいい男ではなかったはずだが。
「あのトムさんていうひとは、自分が慎重だから静雄にキレられたことがないんだって思ってるふうだったけど、違うと思うな。たぶん、いや絶対、静雄は彼を殴らない」
新羅には確信があった。あの日のことを思い出すと、今でも信じられない気持ちになる。今まさにそれを告げようとしたのだが、臨也の声に遮られた。
「絶対ってことはないだろう。あのシズちゃんだよ?」
「ないね。いや、そりゃあトムさんてひとが人道に外れたことをしたり、静雄をキレさせるような理屈っぽいことを言い出したら話は別だけど。あのひとはそもそもそういうことをしない人間なのさ」
「は? どういうこと?」
「もともと静雄に殴られる要素を持ってないってこと。ま、慎重っていうのもある程度は必要なんだろうけど。静雄に殴られる素質がないんだよ」
あれ、素質っていうのはこの場合おかしいか、とつぶやいたが、その素質を誰よりも持っている眼前の友人は返事をしない。
「うん、とにかく、だから殴らないだろうね。殴らないよあれは。だってさ、これはおれが前に偶然見かけたんだけど……」
新羅はそこで言葉を区切り、背後の友人を振り返った。口元が勝手にゆるんでしまう。ここからがおもしろいのである。その、根拠が。
「あのトムさんてひとに話しかけられたとき、静雄はものすごくかわいい顔で笑ってたんだよ!」
やや興奮して自らの目にした事実を告げると、臨也はうつくしい形の眉をゆがませた。さすがに驚いたのだろう。想像もつかないのだろう。
新羅は先ほどよりもさらに興奮して続けた。
「びっくりしただろう? 想像できないだろう? 静雄のかわいい顔! おれだって信じられないよ。あの野獣みたいなやつが! あのとき、ご主人さまに顎をすりすりされた小型犬みたいな顔で笑ったんだよ。肉をもらった土佐犬じゃないんだよ? 小型犬、チワワとか、コーギーとか、ヨークシャーテリアとか、あんなの! ああ、こんなこと静雄の前で言ったらおれは殺されるだろうなあ。確実に全身の骨をへし折られて、息の根を止められるんだろうなあ。からかいたい、でもセルティをのこして死にたくない。だから臨也、これはきみにしか言わないことにするよ」
高揚に任せて言葉を連ね、戒めから解放されたような気分で振り返ると、臨也は無表情に一点を見つめ、何かを考え込んでいるようだった。いつもの悪巧みの最中なのかと思ったが、どうもそういうふうではない。
「どうしたんだい? 大笑いするかと思ったのに」
予想外の反応に少々がっかりして問いかけたら、臨也はペットボトルの蓋を閉めて立ち上がった。