拝啓、すてきな笑顔のあなたへ
第一コーナー 掴んでいたような
その日はどうにも空の見えない模様だった。
こんな日は起きるのすら億劫で、半身を起こすと頭を押さえてため息が出る。
「……走ろうかな」
オフの日、未だ目を覚まさない同居人を横目で見て、一つ笑い掛け──はだけた薄い毛布をかけ直すと、誰ともなしに呟いた。
行ってきます──と。
霧のような早朝の雨は、室内で見るよりずっと冷たかった。
しとしと、さらさら、触れないように濡れてゆく。
耳出しカッパがしっかりとした雨の時より重くて、思わず顔を顰める。
こんな日の府中の街は、幾分か灰色に見える。
川沿いの並木もどこかうだつが上がらない様子で、不気味にその手をこまねいていた。
そうやって濁った景色を眺めていると──十字路で、誰かがスッと横切った。
信号待ちで腿を上げていた私は、なんだかとても面白くなくて、思わずその背中を追いかけてみてしまった。
そうしている間にも雨足は強まってきて、目の前の──思わずウマ娘であろう、耳が見える──人影を追ううち、さらさらとした雨は、その様相を滝へと変えていた。
体が重い。
思うように、足が前に出ない。
そもそも、このカッパが邪魔で──いや、そんなことはもう良くて。
同じ条件なはずなのに、距離の離れてゆくそのウマ娘の影が悔しくて。
思わず、待って、と声に出てしまった。
それが聞こえたのか、前のウマ娘は大きな耳をくるりと一度こちらへ回して──、不思議そうに首を傾げて、先へ先へと行ってしまった。
待って、待って、待って──。
「スズカさん?」
「待って!」
「おひょああっ」
「スズカ、グッドスリーピンデシタ!」
息も荒く、伸ばした手の先には──見慣れた髪の色のウマ娘──の、頬があった。
「あれ、わ、私……」
「ふうかはん、ひはい、ひはいれう」
「わっ、ご、ごめんね、フクキタル……」
後でピクチャ送っときマース、とからから笑うタイキシャトルをやめて、と笑いながら制して、自分の手のひらを見る。
居眠りなんて、しかもあの夢──。
夢から覚めて呆然としていた意識が覚醒するにつれ、なんだかむっ、と、腹にすえかねる思いがあった。
「あ、あれ、スズカさん?怒ってます?」
「ノー、スズカ、フクキタル何もしてないデス!」
「あっ、ごめん、違うの、違うん……だけど……」
そう言うと、なおも考え込むスズカを見て、抱き合ったタイキシャトルとフクキタルは顔を見合わせるのだった。
「スズカさん、なんだかぼーっとしてましたね」
「イキショーチン、て感じでしたネ……」
疲れでしょうか、と話し合う二人は、暮れて行く赤い光に照らされながら、手元のにんじんジュースをストローで吸っていた。
「タイキさん、最近スズカさんと会ってました?」
「ンー……ここツーウィークくらい、トレーニングで会えてませんデシタ」
「そうですか……私、会う機会が割とあるんですけど」
「アー、レース、一緒デシタネ」
「ずっとこう、どこか呆然としてるんですよね」
「ハングリー……ですか、スズカ……」
「そうかもしれませんね……あ、もしかして太──」
「太ってない」
外を見ていた二人が気まずそうに振り返ると、頬を膨らませたスズカが手をハンカチで拭きつつ座るところだった。
タイキとフクキタルは、頬をかきながら打ち合わせでもしたかのように謝ると──スズカに向き直り、真剣味のある目を作る。
無論、二人の無邪気さはかけらも隠せてはいないが。
「もう、二人して……」
「あ、あはは……でもスズカさん、最近本当に心配で……」
「イエス!私たちにできることならなんでもヤリマス!スズカ!」
目を爛々と輝かせ、友人への奉仕心に満ちた二人分の視線を浴びつつ、緑色のメンコを少しへたらせて、顔を二人から逸らしたあと──スズカは二人へ向き直り、そしてまた顔を伏せてしまった。
「ごめんなさい、私にもまだ、分からなくて」
「そ、そうですか……でも、何かあったら言ってくださいね!」
「オユクサイこと、いいっこ無しデスヨ、スズカ」
フクキタルに言葉を訂正されたタイキシャトルが顔を真っ赤にして俯くと、三人でまた当てもない話をして──そして、その日は寮へ帰った。
その夜、スズカは、机に座って、メンコの皺を伸ばしていた。
明日は模擬レース。
そう、模擬とはいえ、レースなのだから、気持ちをしっかり前へ向けないと──。
そんなことを考え考え、くるくると思考が逆回りをする。
事実、スズカ本人にも、ここ最近の不調は原因がわからなかった。
いつからだったか、あの夢を見るようになった。
雨の日のランニング、私が追いつけない、あの夢を──。
なぜ、あの夢を。
なぜ勝てないのか。
顔も見ずに終わってしまう、あの灰色の夢。
あの夢を見るたび、胸が熱くなってしまう。
悔しくて、悔しくて、あの顔を一目、見てみたくって──。
そんなことを、考えていた。
「ス、スズカさん、手!」
「え? あっ」
その日はよほど入り込んでしまっていたのか、ルームメイトに指摘されるまで、指にシワ取りローラーを当てていた。
翌朝、模擬レース。
その日はあいにくの雨だった。
「雨……よし」
最近、雨が少なかったから、ちょうどいい。
それに、何より、なんだか今は──雨の日には、負けたくないから。
濡れても解けないように、靴紐をしっかりと結んで。
今日は、今日も、これからも。
そう決めて、悪天候の芝に脚を踏み入れた。
模擬レースをやるくらいだから、火照った気持ちに快い程度の雨。
気持ちをレースに向けないと。
足元の芝を軽く踏む。
靴底の蹄鉄が、草の束を掴む。
摩擦、よし。
土を掘り上げて妨害だけはしないように、踏みしめる力も念入りに確認をして──。
「あれ、スズカさん!」
「あっ……え、フクキタル?」
予想外の展開。
前日のレース表にはいなかった。
「いやあ、き、奇遇デスネ……」
「……? フクキタル?」
「ひゃふあっ、い、いえあの、補欠ですが! よろしくお願いしますっ!」
「補欠……? あ、今日のお休みの子……」
どうやら、急な補充要因として入れられたようで、聞いてないと言わんばかりに顔を青ざめさせるフクキタルがそこにいた。
その顔を見ていると、なんだか無駄に力の入っていた自分がおかしくなって。
「ふ……ふふっ、フクキタル、大丈夫?……ふふ」
「はえっ、い、いえあの!スズカさんと走るのが嫌って言うわけじゃないですよっ、ただその、勝ち目が薄めと言いますか、はい……」
「フクキタル?」
「ひゃはいいっ!」
「……今日、負けないから」
「……! はい、わ、私も頑張りまひゅっアアッ舌が!」
「ふふ、よろしく、ね」
なんだか独特なフクキタルのペースに乗せられて、ほんの少しばかり肩の荷が降りたのか──スターティングゲートの緊張感すら、今は心地が良く感じた。
雨が激しさを増してきたバ場に、最後のゲートの音が鳴り響く。
あたりに聞こえるのは、鼓動、いくつもの息遣い、そして──雫がゲートに弾かれる音。
フクキタルは七番、私は一番、なんだか聞こえるはずもない、あの子の吐息が聞こえるようで──ひととき、目を伏せて耳を立てる。
そして──。
ランプは赤く、その目を濡らした。
スタート、快調。
作品名:拝啓、すてきな笑顔のあなたへ 作家名:かてろん