彼方から 第四部 第八話
彼方から 第四部 第八話
雲が、ゆったりと流れてゆく。
蒼い空に昇る陽が遠くの山並みを、祭の余韻に浸る花の町の家々を、柔らかく照らしてゆく。
「あの二人――出てっちゃったわねェ……」
屋敷の一間。
テーブルに用意された、温かいお茶。
湯気の立つカップを両の手で持ち、優しく息を吹きかけながら……
花の町の町長はそっと、カップに口を付けていた。
「うん……大丈夫かなあ……あんな占いがあったのに――」
共にテーブルに着き、眠気で重くなる瞼をこじ開け、義母の呟きに頷くカイザック――
徹夜の話し合いで疲れの見える、母と夫に温かいお茶を淹れ……
ニーニャはふと、窓の外へと眼を向けていた。
……一つ、溜め息が出る。
――あの二人と出会ってなかったら
――祭はきっと
――国専占者の予言通りになっていたのよねぇ……
『あの二人』――イザークとノリコの姿を思い浮かべながら、ニーニャは町を、遠くの山並みを、瞳に映していた。
***
……一昨日。
初めて二人を見掛けた時のことを思い出す。
国専占者の予言の成否を見届けようと、物見高く集まった観客たち……
そんな人々で溢れる町を、溜め息交じりに眺めていた時だった。
町の大階段の手摺に腰掛ける彼女を、心配気に覗き込んでいる彼――イザークとノリコに気付いたのは……
なんとなく――気になる二人だった。
彼らの見場もそうだが、醸し出される雰囲気とでも言えばいいのだろうか……
今思えば、そういう感覚に訴えるような『何か』に『気を惹かれた』――そんな感じがする。
そして……それから……
何もかもが上手く好転していったと、そう思う。
無理矢理連れて行かれそうになるノリコを助けようとした時、口入れ屋の男に殴られはしたが、そんなこと、どうでも良いと思えるほどに。
彼女に何か元気のつくものをと、町中へと走ってゆくイザークの後ろ姿を見た時……
彼女の窮地に、高い建物の屋根から突として飛び降りてきた姿を見た時……
『もう、この人しかいない』と、そう思ったのだ。
二人に祭の現状を説明し、何とか頼み込み……口説き落としたのは、その……多少――強引だったとは思うけれど――――
……けれど、『運命』としか言いようのない『出会い』だったと、そう思える。
二人で馬に乗り、笑顔で……
何度も礼を言いながらも、『出発を遅らせたら』というこちらの進言には、耳を貸してもらえなかった。
ノリコの可愛らしい笑顔と、イザークの口の端を少し上げただけの笑み――
二人の姿を脳裏に思い浮かべながら、ニーニャは澄み渡る蒼い空を見上げていた。
「…………あれ?」
何か、いつもと様相が違うように思える。
「……ん――?」
眠い眼を擦りながら、振り向くカイザック。
「……どうか、したの?」
欠伸を噛み殺しながら訊ねてくる母……
「あれ、何?」
二人の問い掛けに背を向けたまま言葉を続け――遠い空に眼を凝らす。
「丘の向こう…………」
娘の――妻の言葉に首を傾げながら、二人は重い腰を上げ歩み寄る。
近づく二人の気配に、ニーニャは『ほら、あそこ』と指先を向け、
「空が――ひずんでる…………?」
共に見やる二人に同意を求めるかのように、眼に映る様を、口にしていた。
遥か遠くに見える丘の、その空高くに現れた、異様な『歪み』を見据えて…………
**********
『それ』から感じられたのは…………
異様なほどの『禍々しさ』だった――――
ケェン――ッ!!!
遠くに見える、丘の稜線。
澄み切った蒼い空。
流れゆく、真白い雲。
そして、見え得る視野全てに広がる、歪み……
突として現れた現象に怯え、馬は激しく嘶き、背上の重荷を振り落とそうとする。
……逃げ得るために。
イザークはノリコを片腕で抱え、咄嗟に、激しく暴れる馬の背から飛び降りていた。
地に降り立ち、彼女を抱えたまま振り仰ぐ。
巨大な、得体の知れぬ『歪み』を見据える。
歪みから感じ取れるこの『禍々しさ』…………
強さは違えど、知っている。
この禍々しさを纏った気配を、自分は『知っている』。
カルコの町で、セレナグゼナで……
『飛び業』を使った連中から、この『気配』が微かにしていた。
連中が肩に乗せていた、あの『小さな生き物』から……
だが、あの生き物から感じていた『気配』など、気に病む必要すらないほど、微かなものだった――
…………これは違う。
あれとは、比較にもならない。
――これは一体、何だ!?
出立前に感じたあの『嫌な予感』が、ノリコから聞いた『占い』の言葉が、脳裏を過る。
「――――っ!」
何かが『来る』気配に、眼を凝らす。
ノリコを抱く腕に、力が籠る。
歪みが波立つ――――
波立つ合間を縫うように手が、腕が……次いで身体が――――姿を現し始める……
「――よう」
「おまえは…………」
声に聞き覚えがある。
その顔に見覚えがある。
隠すこともなく身に纏う強い『気』に、覚えがある。
「久し振りだな」
『やっと獲物を見つけた』と……
そう言わんばかりの、口の端を吊り上げた笑みを見せる男――
名は知らぬ、だが間違いなく、カルコの町で戦った男だ。
奴の強さが、脳裏に蘇る。
……男の視線が、僅かに動く。
「そこの女があの日……」
冷たい眼光に見据えられ、ノリコの身が強張ってゆくのを感じる。
「……おまえが樹海から連れ出した【目覚め】か」
男の口の端が、更に歪む。
「挨拶がわりだっ! 受け取れっ!!」
「――――っ!!」
男が頭上に掲げた両の手に集約された『気』の大きさに――
男の吐いた言葉に――
一瞬……息が止まった。
―――― ダンッ……!!
ノリコを抱えたまま、強く地面を蹴る。
後方へと飛び退るその足元の地が、激しく土煙を巻き上げている……
……男が放った『遠当て』。
その強さ、大きさに、思わず唇を噛み締めた。
「あン時の決着! つける時が来たなァ――【天上鬼】さんよっ!!」
中空に身を置き、歪みより出でて地に降り立った男を見やる。
続けられた男の言葉に眉を顰め……
「知ってるのか?」
ノリコを気遣い、衝撃を和らげるよう地面に足を着けながら、
「おれ達のことを――」
イザークは男に、解せぬ思いと共に問うていた。
***
先刻の『遠当て』の威力――――
とてもではないが、こちらの『正体』を『知っている』者の所業とは思えなかった。
……セレナグゼナで、占者の女『タザシーナ』に二人の『正体』を見破られている。
【天上鬼】と【目覚め】が、『人の姿』をしているということも、そして【目覚め】である『ノリコ』が――――
何の変哲もない、『普通の女の子』であることも……
この男は間違いなく、自分たちのことを【目覚め】、そして【天上鬼】と呼んだ。
作品名:彼方から 第四部 第八話 作家名:自分らしく