ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。
「でも、それが0.99999……なら、1になる。なぜなら、それは9が無限だからだ。それは1に値する。よって、かっこ三分の一かっこ閉じる×3は、1だ。つまり三分の一+三分の一+三分の一は、1になる」
「おみごと」
「よくできました」
稲見瓶と山崎怜奈は、風秋夕にささやかな拍手をプレゼントした。
「卒業もそうだ。俺達は、有限の失望は受け入れなきゃならない。でも、無限の希望を失ってはならない」
「それは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアさんの言葉だね」
稲見瓶は言った。
山崎怜奈は小首を傾げて稲見瓶にきく。
「誰さん? 誰さんだって?」
「キング牧師だよ……。アメリカの。聞いた事ないかな?」稲見瓶は答えた。
「あ~……、はぁいはい。キング牧師、聞いた事ある。あります」
風秋夕はコーヒーカップをカウンターに預けて、改めて二人を見つめた。
「有限とは、支配でもあり、所有だ。無限とは解放であり、何一つ失うもののない事をいう。今を過ぎた時間は思い出という記憶に変換されて、無限になる。そして、俺達は今を常に所有してる。今を大事に、大切に、抱きしめてるんだよ」
「れなちと居られる、こういう時間をだね」稲見瓶は、山崎怜奈を見つめて言った。
「無限ってさー、思うんだけど、方向性であって、数字ではないと思うのよねぇ……」山崎怜奈は虚空を一瞥しながら言う。「その方向性を考える為の方法っていうのが、ちょっと、ぴんとこないんだけどさぁ……」
稲見瓶は楽しそうに言う。「じゃあ、永久に割り算をしてみるとか、どうかな? 例えば、0と1の間には、幾つの数字があるか? とか……」
風秋夕は考えながら言う。「それなら、最初の切り口をどこにもってくか、だよな。0・00000……1とか。一分の5、とか、一分の3、とかぁ……。一分のπでもいいんじゃないの?」
「フラクタルだとなお面白いかもね」稲見瓶は言った。
「やっぱ幾何学かー……」風秋夕は、頬杖を付いた。
「数字じゃないんだってば!」山崎怜奈は苦笑した。「これだから典型的な理系は……」
「有限と無限じゃないけどさ、過去が今を示す、て言葉あるだろ?」風秋夕はにこり、と笑って二人を見つめる。「過去は無限、今は有限、ならさ、無限と定義する過去が、有限と定義する今を媒介にして飛躍する事も可能だし、過去が今を紹介して、今が飛躍する事も可能だよな?」
「つまり?」稲見瓶がきく。
「乃木坂と卒業生だよ。今が乃木坂、かつて乃木坂だったという過去を持ったのが卒業生。どっちも相乗効果って事!」
「なるほどね」
「がんばりま~す」
山崎怜奈は小さくにこやかに笑った。
入り口の自動ドアが無音でスライドし、磯野波平が姿を現した。磯野波平はすぐに、カウンター席に座る三人を発見した。
「よう、今日音楽かけてねーんだな」
磯野波平は、風秋夕の左隣に腰を下ろした。風秋夕の右隣りには、稲見瓶が座っており、その更に右隣りに、山崎怜奈が座っていた。
「おう、そうだな。なんか流そうか……。波平、お前風呂長すぎ……」
風秋夕は、嫌そうに磯野波平を眺める……。
「があ~はっはっは、乃木坂の誰か来ねえかと思ってよー。サウナで気絶するところだったぜ、へっへ」
磯野波平は横柄に笑った。
「イーサン、選曲は任せるよ。何か音楽を流して下さい」
稲見瓶は宙にリクエストを済ませると、コーヒーの最後の一滴までを一気に飲み干した。
「何かけるんだろう……。あ、波平君、コーヒー飲みます?」
山崎怜奈は、流れる楽曲に期待を膨らませながら、磯野波平の方を見る。
「オウオウオウ、飲~む飲む、オウオウオウ」
「アザラシかお前は……」
山崎怜奈は、ふと上を見上げた。自然と笑みがこぼれる。
二千二十二年七月十七日、深夜過ぎに〈リリィ・アース〉の〈BARノギー〉に流れたその楽曲は、山崎怜奈の初のセンター楽曲、乃木坂46の『錆びたコンパス』であった。
風秋夕は、山崎怜奈の方を一瞥して、少しだけ、微笑んだ。
この世の中で、いつ生まれ、どの国で、いつ、どのタイミングで、誰と出逢えるかはわからない。ただ、これまでに生きてきた道のりで出逢えた人々に、大きく感謝をしたかった。
とてつもなく大きな、大きな輪の中に自分は存在している。それは計り知れない力の渦で成り立ち、緻密なアルゴリズムで動いている。その中に存在する自分とは、それはとてもとても小さく、弱い存在である。
しかし、見つける事が出来た――。強くなれる存在を。成長できる学びある存在を。何より価値のある愛を。いつか姫野あたるが語っていた通りの存在。ファンの思念を吸収し、今も尚、膨張と拡張を続ける、乃木坂46という、大宇宙を――。
無限に広がる、一期生から築かれてきた、無限の思い出という歴史を背景に、今も築かれ続ける有限の浪漫。卒業という一種の終極を乗り越えて、それは何処までも続き、広がっていく。
それは有限の涙であり続け、無限の栄光と成る――。いつしか音もなく砕け散り、分裂し、分化し、細分化し、今が何処にもなくなるまで。
二千二十二年七月二十一日・完
作品名:ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。 作家名:タンポポ