ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。
燃え盛る炎が、オレンジ色を濃くしていく……。
「え?」
山崎怜奈は、驚いて、少し後退した。
風秋夕は、笑顔で、山崎怜奈へと花束を贈る。パステルカラーの造花であった。
「あら~、夕君ありがとう~……」
「卒業、おめでと。れなち」
「ありがと~」
稲見瓶も、磯野波平も、山崎怜奈へとパステルカラーの花束を贈った。
「イナッチもありがと~」
「れなち、ご卒業、おめでとうございます。それから、楽しい時間を、ありがとう」
「イナッチ~……、はい」
「れなち、卒業おめでとーな!」
「波平くーん、ありがと~お花~」
「ななんつうかぁ~……。へへ、これからもよろっしくな!」
「はい! よろしく!」
暗闇の中、真っ赤に燃え上がっていた炎を、優しく包み込むように、その空間が、徐々に夕焼け色に染まっていった――。
バーチャル空間の夕焼けとはとても思えない、儚さを映し出すような夕焼けであった。
鈴木絢音は、山崎怜奈の肩をとん、と叩き、微笑んだ。
「卒業おめでとう。これからは、友達として、よろしくお願いします」
山崎怜奈は屈託なく微笑む。
「よろしくです!」
周囲にいた乃木坂46のメンバー達が、山崎怜奈のそばへと集まり始める。
それぞれが、それぞれの想いを込めて、卒業への言葉を山崎怜奈へと贈っていった。
「ダーリン、ふふ」
駅前木葉は、姫野あたるの背中を押した。
「う、うむ……」
姫野あたるは、決心したかのように、山崎怜奈へと歩みを進める。
山崎怜奈は、キャンプファイヤーの炎に照らされて、眩しく染まっていた。
「れ、れなち殿!」
「はい!」
振り返った山崎怜奈は、笑みの残った真顔で、もじもじとしている姫野あたるの言葉を黙ったままで待つ……。
姫野あたるは、うつむけていたその顔を、ゆっくりと、山崎怜奈へと向けて持ち上げた。
「れなち殿……。小生、一生……、一生好きでござるよ……。れなち殿を」
「ああ、あは…、ありがとう~」
「れなち殿、大好きでござる!」
「あらら……」
膝から崩れ落ちるようにして大泣きを始めた姫野あたるに、風秋夕は嫌そうな顔をして、稲見瓶は微笑んだ。磯野波平は大笑いをして、駅前木葉はもらい泣きをしていた。
山崎怜奈は、そんなファンの姿を見て、大きく微笑んでいた。
誰の心にも、何かに向かって燃える火があります。それを見つけ、燃やし続ける事が、私達の人生の目的なのです。
メアリー・ルー・レットン(米国、元体操選手、ロス五輪金メダリスト)
行き倒れたってそれで本望だ、立ち止まってるより前へ進め。志半ばに挫折しても、一度くらい夢を見てたほうがましだ。
秋元康(日本の放送作家、乃木坂46プロデューサー)
世界には、君以外には誰も進む事のできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。
ニーチェ(ドイツの哲学者)
物語はここから始まるのだ。
手塚治虫(日本の漫画家)
二千二十二年七月二十日・完
エピローグ
山崎怜奈は淹れたてのコーヒーを大事そうに両手で抱え、ゆっくりと口元へと近づけたところで、二人の事を一瞥した。
「時間なんて、数理的に解釈された事の変化を認識する為の、基礎的な概念に過ぎない」
風秋夕はカウンターに頬杖をついて、つまらなそうに言った。
「もっと体感的に時間を扱わなきゃダメだ、例えば、れなちのこの約九年半だって、れなちのそれと俺達の時間とは違う。別物だ」
〈リリィ・アース〉地下八階の〈BARノギー〉のカウンター席は、オレンジの明かりとブラックライトの蛍光色に照らされている。
「そうだね。例えるなら、時間を積分したものが人生であり、時間を微分したものが今だよ」
稲見瓶はそう言ってから、温かい湯気の昇るコーヒーを息で冷まし始めた。
風秋夕は、頬杖をついたままで呟く。
「答えは至ってシンプルだ。数理的な実証も同じ。ね、れなち」
山崎怜奈は、「うん、まあね」と頷いた。コーヒーをすする事を預けて、先に回答する事にする。
「数学がシンプルだっていう事をみんなが信じないんだとしたら、それはただ、人生がいかに複雑かをわかってないからだよね……」
「ブラボー」
「言うね」
風秋夕と稲見瓶は、山崎怜奈の発言を高く評価した。
山崎怜奈はふう、と息を一つ吹き付けてから、まだ熱いコーヒーを飲む。
「この九年半も、俺やイナッチ、れなちを包み込んだ時間は同じじゃないんだ。時計の針はチクタクチクタク、一定だけどな。実は時間って奴は影響を避けられないもので、ようは伸びたり縮んだりする」
風秋夕はそう言って、頬杖をやめて、コーヒーを一口だけ飲んだ。
稲見瓶はカウンターにコーヒーカップをそっと置いた。
「アインシュタインの特殊相対性理論から導かれる最も驚くべき結論の一つは、時間という慣れ親しんだ概念は、根本的に間違っているという事だね」
「そう、時間は絶対に規則正しく、いつでもどこでも同じだと考えられていた。これに対してアインシュタインは、『NO』だと言った。時間は伸びたり縮んだりし、人それぞれにとって流れ方が異なり、例えるなら、俺やイナッチ、れなちの時間は違うと。そうなる」
風秋夕は言い終えると、またコーヒーを旨そうに飲んだ。
「それもこれも、人間の脳が結局のところ捉えるんだもんねー……」
山崎怜奈が言った。彼女は流れるような作業でコーヒーを飲む。
稲見瓶は、山崎怜奈のその言葉に反応を見せる。
「そう。それってね、本当にその通りで、脳が捉えるんだ。脳の最も重要な働きは何かな?」
「記憶か?」風秋夕が言った。
「思考?」山崎怜奈が言った。
「この場合、思考だね。思考こそが一次言語であり、数学は二次言語だ。数学は思考の上に作られた、一つの言語に過ぎない」
「数学的創造の原動力は、思考力じゃなくて、想像力だけどな」
風秋夕は口元を引き上げて言った。
「意地悪だね」
稲見瓶も、口元を引き上げて呟いた。稲見瓶は続けて言う。
「例えば、三分の一+三分の一+三分の一は、1だよね。でも、三分の一とは、精確に言えば0.33333……だよね?」
「うん」
山崎怜奈は、あっけらかんとした表情で頷いた。
「じゃあ、0.33333……+0.33333……+0.33333……は、0.99999……だよね。よって、1ではない。じゃあ、三分の一+三分の一+三分の一は、1、という構図は成り立たない」
「あそうか~……」
山崎怜奈は、表情を変えて思考を開始させる。
「えーなんだ、何でだ……」
風秋夕は「それはね」と躊躇(ためら)いもなくしゃべり始めようとする。稲見瓶は澄ました顔でうっすらと微笑んでいた。
「夕には、こういった問題は問題にならないか。この前これを言った時は、現役の大学生も説明できなかったんだけどね」
「あ、わかった」
山崎怜奈も微笑んだ。
風秋夕は、山崎怜奈に優しい笑みを浮かべて頷いてから、説明を始める。
「それはね、0.99999……9だと、1より小さいから、1にはならない。なぜなら、0.99999……9、というそれは、有限だからだ」
山崎怜奈と、稲見瓶は笑みを浮かべて頷いている。
作品名:ポケットにしまう有限の涙と無限の栄光。 作家名:タンポポ