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僕はきっと、この日を忘れない。

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  僕はきっと、この日を忘れない。
                 作 タンポポ



       1

 ファースト・コンタクト(株)本社ビル二十二階03ミーティング・ルームのすりガラス製のドアを軽くノックし、綾乃美紀(あやのみき)は淹れたてのコーヒーを三人に届けた。
「ありがと」
 そう言って軽く微笑んだ男は、風秋夕(ふあきゆう)、今年の十二月十六日に二十三歳を迎えるファースト・コンタクトの時期エース的な存在であった。
「どうもありがとう」
 低い声でそう言って呟き、笑みもしないこの男は、稲見瓶(いなみびん)、今年の十二月二十四日に二十三歳を迎える、やはりファースト・コンタクトの時期エース的な存在であった。
「悪いね、お姉さん。いただくね」
 綾乃美紀には一瞥もよこさずに、すぐに話題を切り替えたこの女は、今年の十一月十三日に二十八歳を迎える、ファースト・コンタクト企画営業部の課長兼企画部主任の三笠木里奈(みかさぎりな)であった。
「失礼いたします」
「あ、おねえさん。ちょっと、いいかな」
「はい?」
 03ミーティング・ルームからトレーを抱いて出ようとした綾乃美紀に、風秋夕が声をかけた。綾乃美紀は今年の十月に二十五に際に平社員である。
 風秋夕は綾乃美紀に、笑みを浮かべた。「ねえ、おねえさん。風の噂で聞いたんだけどさ、なんか、乃木坂の大ファンなんだって?」
「は、ええ、あ、はい……」綾乃美紀は慌てるように苦笑を浮かべた。「そんな、噂にまでなってしまいましたか……。恐れ入ります」
「お名前は?」
 三笠木里奈がきいた。
「綾乃、美紀と申します……」
「で、誰のファンなの?」
三笠木里奈はきつい視線で、似合わぬ質問をした。
「え?」
「誰の事を推しているの?」
三笠木里奈はもう一度、聞き取りやすい発音で言った。
「とりあえず、座りなよ、綾乃さん」
風秋夕は笑顔で、片手でテーブル席を示してみせた。
「は、い……」
 綾乃美紀は今現在、己の置かれている状況を激しく脳裏で弾き出そうとする。ここは世界的大企業の本社ビルで、長けた頭脳力者以外は出入りも許されぬ二十二階の03ミーティング・ルームである。
 ふと書類のコピー機の故障を直すように上司に指示され、二十二階の故障していたコピー機をさっそく修理したところ、03ミーティング・ルームにコーヒーを差し入れてと社員に言われ、流れるように、言われるがままにコーヒーを届けに来ただけである。
 それがたった今、自分は「乃木坂の誰を推しているのか?」とファースト・コンタクトきっての上位ランク者達に問われている。
 椅子に腰かけて、噂に違わぬ風秋夕の美形を凝視しながら、綾乃美紀はごくりと、唾を呑み込んだ。
「あの……。齋藤、飛鳥さんです」
「おおー」
 風秋夕は微笑み、短く拍手した。
「合格ね」
 三笠木里奈は、正面に座って黙り込んでいる稲見瓶を一瞥する。
「稲見君、合格よね?」
「そうですね。合格か不合格かで言えば、大合格だ」
 稲見瓶は薄っすらと微笑み、そう言ってまだ熱いコーヒーを旨そうにすすった。
「俺達は、ファーコンの隠れ乃木ヲタなんだ。よろしくね、綾乃さん」
 風秋夕はウィンクで綾乃美紀に微笑んだ。綾乃美紀はたじろいでいる。
「あの……、本当、ですか?」
「何がです?」三笠木里奈はきつい視線できき返す。「乃木ヲタが珍しい? それとも人を愛する行為において満たす必要のある必須条件でもあるのかしら?」
「あいえ……。あの、私、乃木坂が大好きで、あの、ライブにも行っています! 齋藤飛鳥ちゃんのトークもメールも全部とってます!」
「当然ね」三笠木は視線を反らした。「噂になるぐらいですから、そこのところは期待していますから。お金で幸せを買いなさい。それが大人の特権よ」
「はい買います!」
「しかし、噂にまでなるなんて、カーなり入れ込んだファンなんだろうね」
 風秋夕は無邪気に微笑んだ。
「噂、ですか……」
綾乃美紀はその顔を赤面させる。
「日産の十周年記念ライブ、観戦するの?」
 風秋夕は興味深そうにその美形を笑わせた。
「配信ですが」
「なるほど。他に推しはいないの?」
「ああ、はいあの、山下美月さんと、与田祐希さんと、岩本蓮加さんと、秋元真夏さんと、賀喜遥香さんと、早川聖来さんと、掛橋紗耶香さんと、遠藤さくらさんの、ファンです……」
「えーと、美月ちゃんと、与田ちゃんと」風秋夕は指折り数えていく。「れんたんと、まなったんと、かっきーと、せーらさんと、さぁちゃんとさくちゃんね。で飛鳥ちゃん入れて、九人推しか」
「はい。あの、一応、そういう事で話題にはよく出させていただいております。本当は、全員好きなのですけど。DDと言われやすくて……」
「私は生駒里奈さん、一本です。よろしく」三笠木里奈は眼鏡の位置を直して、続けざまに言う。「りな、という名前も漢字も、生駒ちゃんと同じです。三笠木里奈と申します」
「DDって例え、何とかならないものかね」
 風秋夕は苦笑して、頬杖をついた。
「仕方ないよ、DDとは誰でも、好きという表現だ」稲見瓶は、煙草を用意しながら淡々とした口調で言う。「嘘ではないよね。確かに、全員推しなんだから、誰でも好きと言えばそうなる」
「表現が腐ってるだろ」頬杖の風秋夕の視線だけが、稲見瓶を捉える。「一人一人に推しになった経緯と、思い出がある」
「風秋君は気が多いのよ」三笠木里奈はにこりともせずに言った。
「生駒ちゃんは卒業しちゃったんだぜ、何でまだ乃木坂にこだわるんです?」風秋夕は頬杖をやめて、三笠木里奈を一瞥した。「好きだから、でしょ? そのまんま、その好きを言葉に表現として変換してるだけだよ。DDとは、なんか違う……」
「何と呼ばれても、俺は全員を好きでいたい」稲見瓶は風秋夕と三笠木里奈を一瞥すると、うまそうに煙草の煙を吐き出した。「なら、DDと呼ばれても気にしない。これが最も手っ取り早い解決策だよ」
「綾乃さんは、いつ頃から乃木坂を?」
 風秋夕はコーヒーを手に取りながら綾乃美紀を見つめた。
 風秋夕の切れるような視線に一瞬ひるみながら、綾乃美紀は言葉を絞り出す。
「私は……、三期生の加入当時ぐらい、そのちょっと前ぐらいからのファンです」
「私は一期生から」三笠木里奈はコーヒーを手に取る。「風秋君も、稲見君も、一期生からの古参なの。ききたい事があれば、何でもきいて?」
「あ、はい……」
「何でもって、答えられるかな?」風秋夕は苦笑する。
「私、犬を飼っているんですけど……。齋藤飛鳥ちゃんの、好きな犬って、どんな犬種でしょうかね?」
「お二人、わかる?」三笠木里奈は風秋夕と稲見瓶を一瞥する。
「たぶん、ひいきにしてるのは、シェルティだね」稲見瓶が無表情で答えた。「シェットランド・シープドッグ。幼い頃の写真で、なれしたんだ感じでシャルティと一緒に写ってる飛鳥ちゃんの写真がある」
「わ、すごぉい……」綾乃美紀は眼を見開いて驚く。「飛鳥ちゃん推しの私でさえ知らないのに……」
「ファンになった時期が関係してるね、たぶん」稲見瓶は綾乃美紀を見つめて言った。
「他には?」風秋夕が言う。「俺らマニアックだから、知りたければ教えるよ」