僕はきっと、この日を忘れない。
「えーっと、じゃあ……」
綾乃美紀は、少し無理難題を出してみる事にした。
「与田ちゃんの、お父さんの名前は……」
「ゆうぞうさん」稲見瓶が答えた。
「お母さんの名前は」
「ゆきさん」稲見瓶が答えた。
「ですが、……お友達の名前は、おわかりになりますか?」綾乃美紀は己でもわからない問題を出した。「ちょっと、無理言ったかもです……」
「福岡聖菜さん、浅井七海さん、佐藤紀星さん。この三人はAKB48」稲見瓶は淡々と説明する。「中山莉子さん、この人は私立恵比寿中学。小玉梨々華さん、三品瑠香さん、この二人はわーすた」
綾乃美紀は、稲見瓶の想像以上の知識に驚いている。
「ちなみにね、綾乃さん」風秋夕が微笑んで言う。「中学時代の与田ちゃんの仲間は、せいかちゃんとももかちゃんだ」
綾乃美紀は驚愕した。
「本人から聞いた事でもあるんですか?」
「おほん」稲見瓶は咳払いをする。
「ないよ」風秋夕はにこりと微笑んだ。
「他には、質問ある?」
三笠木里奈は美味しそうにコーヒーを飲んだ。綾乃美紀は少し驚きすぎて、向上させた質問の質を落ち着けようと密かに深呼吸を試みていた。
「あの、唐突な申し出なのですが、私と、グループラインしていただけないでしょうか?」
三笠木里奈は、ポケットからメンソールの煙草を抜き取りながら、風秋夕と稲見瓶を一瞥していた。
「いい、三笠木さん」
風秋夕は吸い終えた煙草を、ガラス製の大きな灰皿に捩じり消しながら、三笠木里奈を見つめ返した。
「ええ、いいわ。ただし、仕事上での質問や相談には一切応じないから、そのつもりで」
「はい! ありがとうございます!」
「もう五時だな。みんな、そろそろ帰ろうぜ」
風秋夕はポケットに煙草をしまった。
「ライン、招待しておいて下さい」
稲見瓶も、ポケットに煙草をしまって、残りのコーヒーを飲み干した。
「じゃあ、名前をつけましょう。乃木坂46ファン同盟というのはどうかしら?」
「んぐふ!」
稲見瓶は飲み込みかけていたコーヒーを豪快に吐き出した。
三笠木里奈と綾乃美紀は驚いている……。
「いや、あはは。その名前、いまいちだな……」
風秋夕は苦笑を浮かべながら、嫌そうに稲見瓶を一瞥する。
「なーによ、お前は……」
「ごほ、すまない……。すみません」
稲見瓶は激しく咳き込んでいる。風秋夕は溜息をついてから、仕方なく稲見瓶の背を優しくさすった。
「乃木坂46非公式ファンクラブSにしましょう」
「Sの意味は?」風秋夕は三笠木にきく。
「スペシャルです」
2
上昇企業の磯野貿易産業(株)の横浜にある会社倉庫の二階に、天野川雅樂(あまのがわがらく)と来栖栗鼠(くるすりす)は連れてこられた。磯野波平(いそのなみへい)はてきぱきとして、そして気だるそうに、仕事内容を二人の新入社員に説明している。
磯野波平は、今年の八月五日で二十三歳を迎える磯野貿易産業の次期社長として勤務する会社の副責任者であった。
「わかるか? Aって書いてあるやつはAに。BはB通路にだ。わかんなかったらそこら辺の社員とっ捕まえてきけや」
「磯野ぉ、てめえの説明で、一発でわかるわけねえだろうが……」
天野川雅樂は顔をしかめて磯野波平を睨みつける。天野川雅樂は、今年の十月十日に二十三歳を迎える、磯野貿易産業の新入社員であった。
「何だてめ、その言い方ぁ!」
磯野波平は丸めた資料を使って、天野川雅樂の頭部をぶっ叩いた。
「痛ってえなこらてめえ!」
「君にも痛覚があるのかね。単細胞なのに」
「ああ? 磯野てめえぇ」
「まあまあ、もうそろそろ、も少し仲良くしてもいいんじゃないですかぁ?」
来栖栗鼠は、女の子のような童顔を笑わせて皮肉を言った。来栖栗鼠は今年の十一月七日に二十歳を迎える、磯野貿易産業の新入社員である。
「大体なあ、て~めえらがのんびりヲタ生活送りてえっつうから、うちの高支給の仕事紹介してやってんだぞ。その態度はなんなんだよああ?」
「仕事はやる。金よりいい働きしてやらあ……」天野川雅樂は磯野を睨みつける。「だけどなあ、てぇめえだけには上司ヅラされたくねえわけよ。わかるか?」
「別に誰が上司でも僕は構わないけどねー」
来栖栗鼠はよそ見をしながらそう呟くと、遠目に眼が合った女性社員達に大きく手を振る。
「はぁ~い、今日から僕も仲間だよ~、よろしくね~!」
遠くにいた女性社員達から黄色い悲鳴が上がった。
磯野波平は、来栖栗鼠の頭部を素手で殴った。
「うっわっ……。痛った~……」
「てめえもてめえだ来栖とやら……。ここはナンパする場所じゃねえんだ、その顔とっかえて来い!」
「そぉーんな事言われても……、ねえ? 雅樂さぁん」
「いや、それはこいつの言うとおりだ」
「こいつとは何だね!」磯野波平は興奮する。「上司をこいつってか、てめえんちはそう教育してんのか!」
「俺はそもそも、お前の女みてえなチャラ付いた態度が気に食わねえ」
天野川雅樂は、来栖栗鼠から視線を外して、腕組みをした。
「そーんな事言われたってぇ……。性格には、その人達の生い立ちとか、あるんじゃないかなあ?」
「聞ぃいてんのかてめえは!」
磯野波平は眼玉を飛び出させそうになりながら、天野川雅樂に叫んだ。
「るっせえなぁ……」
「声が大きい、あっはは。まさしく波平さんのカミナリだねー」
「だぁれがどっこの波平さんだおら!」
磯野波平は再度、来栖栗鼠の頭部を拳で激しく殴った。
「った~……。ちょ、へっこんじゃうよ~」
「お前ら、乃木坂の日産の十周年ライブ、どうすんだ。ちと、こっち来い」
磯野波平は歩き始める。二人はその後について行く。
「どうって、僕配信だからぁ……。一人で観てもいいんだけど、どうせなら、あそこで観たいよね~」
「しっ、馬鹿。来栖、てめえこんなとこで何秘密ばくろしてやがる、夕さんに言われたろ、あそこは秘密の場所だってよ」
「いやいや、今の僕の発言では何もわかんなかったよ。雅樂さんの方が怪しいって」
「そうなのか?」
「うん」
磯野波平は脚を止める。二人も脚を止めた。そこは二階倉庫の喫煙場所であった。黄色いテープで四角く喫煙場所をマーキングされている。マーキングの中心には長細い灰皿が五つ設置されていた。
すぐ近くには、缶ジュースの販売機が何台も置かれていた。煙草の販売機も数台設置されている。
「ここでな、煙草とか吸え。乃木坂の話すっときも、二人でここにいる時だけにしろ。どこで誰が聞いてっかわっかんねーんだからな……」
磯野波平は渋い表情で二人にそう言うと、作業服の胸ポケットから煙草を取り出した。
「あやべ……。ちと、火ぃ持ってねえか?」
「持ってなーい」
「ちっ」
天野川雅樂は煙草を一本だけ取り出し、口に咥えると、己の煙草だけに百円ライターで火をつけてから、それを磯野波平に大袈裟(おおげさ)に投げ渡した。
「もうそれいらねえ」
「てーんめ、何だその態度は!」
「ねえ、注目されちゃうからさぁ、もっとこそこそしゃべらない?」
磯野波平はいらいらしながら、煙草に火をともした。
「ふう~、……たく。てめえらは、リリィで日産か?」
作品名:僕はきっと、この日を忘れない。 作家名:タンポポ