ポケットいっぱいの涙
ポケットいっぱいの涙
作タンポポ
1
「失礼します、山下先生……」
二十代の女子看護師の声に、山下美月はデスクから、笑顔を浮かべてから振り返った。
「先生はやめてよ、せめて呼ぶんなら、美月先生がいいかな」
「美月せんせ、もうお昼ですよ。根詰めるのもいいですけど、何かお取りにならないと」
「もうそんな時間か……」山下美月は壁のプラスティック製の梟時計(ふくろうどけい)を見上げた。「矢崎さん、ちゃんと来てる? あと、松井さんと、え~っと……。多々割さん」
「はい、今昼食中ですね。その後、入浴介助になります。今日、患者さんが多くて、松井さんと矢崎さんと多々割さんは、入浴介助後半組になります」
「そう。あれ、あと、愛宕(あたぎ)さん、ちゃんと来てる?」
「はい。……ああ、でもぉ、お昼ご飯、なかなか。息子さんのご飯は喜んで食べてくれるそうなんですけど……。認知症が酷くて」
「あ。そういう言い方、ダメよNG。んふ」山下美月はにこっと微笑んだ。「なに、どんな感じなの?」
女子看護師は眼を見開いて、口元を隠していた手をどけた。
「暴言、というか……。とにかく、食べてくれないんです。何かが見えている感じもありますし…、とにかく、その何かに必死で文句を言ってて……」
「周辺症状が起こってるのね」
「あ、はい、そうです」
「いいよ、私、愛宕さんとこ行くよ」山下美月は椅子から立ち上がった。「心理士の私が言うのも何だけど、何でも根気よ、根気」
公認心理士。それは心理カウンセラーとして活躍する為の唯一の国家資格である。
2017年9月に施工され、2018年から文化科学省と厚生労働省によって国家試験として実施されたものだ。
公認心理士とは、国家資格として認定されている為、法律上、様々な業務が担える資格となっている。
例えば、心理査定(アセスメント)、心理面接(カウンセリング)、関係者への面談、心の健康についての教育や情報提供活動などがそうである。
業務内容は、民間資格である臨床心理士といささか似ているが、より幅広く心理学全般に対応できる専門家として活動ができる。
山下美月は、大学と大学院で必要な科目を修了し、28歳という若さでこの公認心理士の資格を取得した。
それもこれも、認知症を患った祖父を、最後まで丁寧に心温かくケアしてくれた、この東京木乃原記念病院のデイケアにて、セラピストとして就職し、恩返しをする為だけに取得した大きな資格であった。
しかし、今ではやりがいもしっかりと感じている。
デイケアは、急性期の病院と違って、利用者一人一人との時間を長く持てるし、じっくりとかかわる事ができる。
リハビリだけではなく、レクレーションなどを通じて、沢山の笑顔を見る事もできるのだ。他職種と密に連携を行う仕事なので、様々なアプローチも行える。
そんなやりがいの中、山下美月がデイケアで最も気に入っている事は、一日一日と重ねてきたリハビリで、利用者の身体の状況が改善する姿を、いつも間近で見られる事であった。
「行け! あっち行け!」
東京木乃原記念病院の利用者の一人である愛宕壱(あたぎいち)は、食事を口に運ぼうとする看護師の手を掃い退けながら、虚空の何かに激しく怯えて、憤怒している様子であった。
山下美月は、愛宕壱のそばで、腰を屈(かが)めた。そのままじっくりと愛宕壱を笑顔で観察している。
二十代の女性看護師が「愛宕さん、手ぇ出したらダメでしょう?」と言った。
山下美月はその女性看護師を見上げて、優しく首を横に振った。
「認知症の患者さんに、否定はしちゃダメよ。否定、禁止、命令はNG。覚えておいてね」
「はい、すみません……」
「ううん。ねえ、愛宕さん」山下美月は、愛宕壱の視界に入って、微笑んだ。その手は優しく、愛宕壱の両手を包んでいる。「美月だよ。わかる?」
「ああ、あああ、美月ちゃ……」
「うん。もうお昼だから、ご飯食べよっか?」山下美月は優しく微笑む。「お腹すいてるんじゃない?」
「お腹、すいた……」
「はい。食べようね~」
山下美月は、スプーンで愛宕壱の大きく開いた口に食事を運んでいく。しっかりと咀嚼しているかをゆっくりとした視線で見つめながら、彼女は愛宕壱が昼食を食べ終えるまで介助した。
今年に入ってからうちのデイケアに通うようになった愛宕壱さんは、息子さんの愛宕誠さんと二人暮らしで、息子さんが仕事と母親の介護の二足のわらじが困難になりつついあり、うちのデイケアを利用してくれるようになったのだけれど、愛宕壱さんの認知症の進行具合は、思ったよりも深刻だった。
最近になって、周辺症状の1つでもある、徘徊(はいかい)の傾向もうかがえる。このデイケアに通うずっと以前からと報告のある失禁や弄便(ろうべん)も、院内で目立つようになってきていた。意思に沿わず、便をもらしてしまうのだ。それは諸症状として、愛宕壱さんは排泄した便をいじり、壁や床などにこすりつける行為を始めた。
山下美月は愛宕壱を自室でもある〈カウンセリング室〉に連れて行き、TMT-A検査を行う。
「愛宕さん、これ、憶えてるかな~? 昨日もやったんだよう」
「ああ、ああ、美月ちゃ……」
紙にランダムに記載された1~25の数字を1から順番に線で結び、作業完了までの所要時間を測る。
「わかったかなあ? 愛宕さん、やろっか?」
「……うあ」
「はい、やってみようか」
「あああ……」
その後も、TMT-B検査も行った。
紙に記された1~13の数字と、『あ』から『し』のひらがなを使い。
1→あ→2→い……
といったように数字とひらがなを交互に結び、作業完了までの所要時間を測るというものだ。
私は愛宕壱さんの診断として、『評価不能』と結論を出した――。重症な注意生涯がみられる。実行機能障害、判断力障害も併発(へいはつ)していて、それはいうならば、以前は段取りよくできていた日常生活での行動や、善悪などの判断も、現状では全くできなくなってしまっている状態の事で、これらの障害の為に、認知症の愛宕壱さんは、過去・現在・未来という連続性の中で自分や物事を捉える事ができなくなっていて、過去の記憶を辿る事も未来を予測する事もできずに、延々と不安な感覚に陥(おちい)ってしまっている状態なのだ。
その結果、落ち着かない言動を取ったり、繰り返し同じ質問をしたりする行動がみられるようになっている。
院内での徘徊を追いかけた結果、戻る事ができずにいた事を考慮すると、おそらく、見当識障害も併発していると思われた。日付や曜日の他、現在の季節、更には今いる場所がわからないといった障害だ。近所へ出かけただけで迷子になったり、通常は眠っているはずの深夜に出かけてしまったりする場合もある。
山下美月はスマートフォンで、愛宕壱の息子である、愛宕誠のスマートフォンへと電話をかけた。
「………」
お気に入りである壁掛け時計の、プラスティック製の梟時計(ふくろうどけい)を見上げながら、数度、続けて着信を鳴らした。
何度目かに、優しい低い声の、愛宕誠は電話に出た。
作タンポポ
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「失礼します、山下先生……」
二十代の女子看護師の声に、山下美月はデスクから、笑顔を浮かべてから振り返った。
「先生はやめてよ、せめて呼ぶんなら、美月先生がいいかな」
「美月せんせ、もうお昼ですよ。根詰めるのもいいですけど、何かお取りにならないと」
「もうそんな時間か……」山下美月は壁のプラスティック製の梟時計(ふくろうどけい)を見上げた。「矢崎さん、ちゃんと来てる? あと、松井さんと、え~っと……。多々割さん」
「はい、今昼食中ですね。その後、入浴介助になります。今日、患者さんが多くて、松井さんと矢崎さんと多々割さんは、入浴介助後半組になります」
「そう。あれ、あと、愛宕(あたぎ)さん、ちゃんと来てる?」
「はい。……ああ、でもぉ、お昼ご飯、なかなか。息子さんのご飯は喜んで食べてくれるそうなんですけど……。認知症が酷くて」
「あ。そういう言い方、ダメよNG。んふ」山下美月はにこっと微笑んだ。「なに、どんな感じなの?」
女子看護師は眼を見開いて、口元を隠していた手をどけた。
「暴言、というか……。とにかく、食べてくれないんです。何かが見えている感じもありますし…、とにかく、その何かに必死で文句を言ってて……」
「周辺症状が起こってるのね」
「あ、はい、そうです」
「いいよ、私、愛宕さんとこ行くよ」山下美月は椅子から立ち上がった。「心理士の私が言うのも何だけど、何でも根気よ、根気」
公認心理士。それは心理カウンセラーとして活躍する為の唯一の国家資格である。
2017年9月に施工され、2018年から文化科学省と厚生労働省によって国家試験として実施されたものだ。
公認心理士とは、国家資格として認定されている為、法律上、様々な業務が担える資格となっている。
例えば、心理査定(アセスメント)、心理面接(カウンセリング)、関係者への面談、心の健康についての教育や情報提供活動などがそうである。
業務内容は、民間資格である臨床心理士といささか似ているが、より幅広く心理学全般に対応できる専門家として活動ができる。
山下美月は、大学と大学院で必要な科目を修了し、28歳という若さでこの公認心理士の資格を取得した。
それもこれも、認知症を患った祖父を、最後まで丁寧に心温かくケアしてくれた、この東京木乃原記念病院のデイケアにて、セラピストとして就職し、恩返しをする為だけに取得した大きな資格であった。
しかし、今ではやりがいもしっかりと感じている。
デイケアは、急性期の病院と違って、利用者一人一人との時間を長く持てるし、じっくりとかかわる事ができる。
リハビリだけではなく、レクレーションなどを通じて、沢山の笑顔を見る事もできるのだ。他職種と密に連携を行う仕事なので、様々なアプローチも行える。
そんなやりがいの中、山下美月がデイケアで最も気に入っている事は、一日一日と重ねてきたリハビリで、利用者の身体の状況が改善する姿を、いつも間近で見られる事であった。
「行け! あっち行け!」
東京木乃原記念病院の利用者の一人である愛宕壱(あたぎいち)は、食事を口に運ぼうとする看護師の手を掃い退けながら、虚空の何かに激しく怯えて、憤怒している様子であった。
山下美月は、愛宕壱のそばで、腰を屈(かが)めた。そのままじっくりと愛宕壱を笑顔で観察している。
二十代の女性看護師が「愛宕さん、手ぇ出したらダメでしょう?」と言った。
山下美月はその女性看護師を見上げて、優しく首を横に振った。
「認知症の患者さんに、否定はしちゃダメよ。否定、禁止、命令はNG。覚えておいてね」
「はい、すみません……」
「ううん。ねえ、愛宕さん」山下美月は、愛宕壱の視界に入って、微笑んだ。その手は優しく、愛宕壱の両手を包んでいる。「美月だよ。わかる?」
「ああ、あああ、美月ちゃ……」
「うん。もうお昼だから、ご飯食べよっか?」山下美月は優しく微笑む。「お腹すいてるんじゃない?」
「お腹、すいた……」
「はい。食べようね~」
山下美月は、スプーンで愛宕壱の大きく開いた口に食事を運んでいく。しっかりと咀嚼しているかをゆっくりとした視線で見つめながら、彼女は愛宕壱が昼食を食べ終えるまで介助した。
今年に入ってからうちのデイケアに通うようになった愛宕壱さんは、息子さんの愛宕誠さんと二人暮らしで、息子さんが仕事と母親の介護の二足のわらじが困難になりつついあり、うちのデイケアを利用してくれるようになったのだけれど、愛宕壱さんの認知症の進行具合は、思ったよりも深刻だった。
最近になって、周辺症状の1つでもある、徘徊(はいかい)の傾向もうかがえる。このデイケアに通うずっと以前からと報告のある失禁や弄便(ろうべん)も、院内で目立つようになってきていた。意思に沿わず、便をもらしてしまうのだ。それは諸症状として、愛宕壱さんは排泄した便をいじり、壁や床などにこすりつける行為を始めた。
山下美月は愛宕壱を自室でもある〈カウンセリング室〉に連れて行き、TMT-A検査を行う。
「愛宕さん、これ、憶えてるかな~? 昨日もやったんだよう」
「ああ、ああ、美月ちゃ……」
紙にランダムに記載された1~25の数字を1から順番に線で結び、作業完了までの所要時間を測る。
「わかったかなあ? 愛宕さん、やろっか?」
「……うあ」
「はい、やってみようか」
「あああ……」
その後も、TMT-B検査も行った。
紙に記された1~13の数字と、『あ』から『し』のひらがなを使い。
1→あ→2→い……
といったように数字とひらがなを交互に結び、作業完了までの所要時間を測るというものだ。
私は愛宕壱さんの診断として、『評価不能』と結論を出した――。重症な注意生涯がみられる。実行機能障害、判断力障害も併発(へいはつ)していて、それはいうならば、以前は段取りよくできていた日常生活での行動や、善悪などの判断も、現状では全くできなくなってしまっている状態の事で、これらの障害の為に、認知症の愛宕壱さんは、過去・現在・未来という連続性の中で自分や物事を捉える事ができなくなっていて、過去の記憶を辿る事も未来を予測する事もできずに、延々と不安な感覚に陥(おちい)ってしまっている状態なのだ。
その結果、落ち着かない言動を取ったり、繰り返し同じ質問をしたりする行動がみられるようになっている。
院内での徘徊を追いかけた結果、戻る事ができずにいた事を考慮すると、おそらく、見当識障害も併発していると思われた。日付や曜日の他、現在の季節、更には今いる場所がわからないといった障害だ。近所へ出かけただけで迷子になったり、通常は眠っているはずの深夜に出かけてしまったりする場合もある。
山下美月はスマートフォンで、愛宕壱の息子である、愛宕誠のスマートフォンへと電話をかけた。
「………」
お気に入りである壁掛け時計の、プラスティック製の梟時計(ふくろうどけい)を見上げながら、数度、続けて着信を鳴らした。
何度目かに、優しい低い声の、愛宕誠は電話に出た。
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ