ポケットいっぱいの涙
「もしもし、愛宕さん、私、東京木乃原記念病院のデイケアで、セラピストとして愛宕壱さんの担当をさせてもらっている、山下と申します」
「ああ、はい……」
低い声が返ってきた。大きな音が聞こえる。工場か何処かだろうか。
山下美月は、ソファを叩いている愛宕壱を見つめながら言う。
「お母さんの経過報告なんですけど、あのう……、最近…、ご自宅では、どんな感じでしょうか、壱さんは」
「あの、仕事中なんで、すいません……」
「ああ、そうですね。ええ、では、今日…、送迎の時に、私そちらに壱さんと一緒に向かいますので、少々、お時間のほど、いただけないでしょうか?」
「仕事の後は、もうくたくたなので、今日は…ごめんなさい。母を、よろしくお願いいたします。じゃあ、仕事に戻りますので、切ります……」
「わかりました、じゃあ、今度」
「はい……。母を、お願いいたします……」
山下美月は、通話の切れたスマートフォンを見つめた。
いい息子さんだ。そう感心をしながらも、愛宕誠さんの精神状態が少し気になった。
ずいぶんと披露しきっているような感覚を覚えたし、母親を介護しないで仕事に没頭できる安心感ものぞけた。愛宕壱さんの身内である息子さんご本人が望まないのならば、さすがに自宅まで押し掛ける事は気が引ける。
山下美月は静けさを取り戻したソファの愛宕壱を微笑ましく一瞥して、己を呼んだ部屋のドアのノックにその顔を向けた。
「は~い?」
扉が開く。
「美月せんぱーい、コーヒーでーす……」
室内に紙コップのコーヒーを運んできたのは、理学療法士の久保史緒里であった。
理学療法士とは、怪我や病気などで身体に障害のある人や、障害発生が予測される人に対して、基本動作能力の回復や維持、および障害の悪化の予防を目的に、運動療法や、物理療法などを用いて、自立した日常生活が送れるよう支援するリハビリテーションの専門職をいう。
久保史緒里は、大学院に通う現役学生であり、山下美月の二つ後輩の年齢で、この職場で山下美月に出逢ってから、飼い猫のように山下美月になついている、セラピストの山下美月を唯一『先輩』と呼ぶ、山下美月をこよなく愛する仕事仲間であった。
「ありがと~ん、史緒里~」
久保史緒里はにこり、と美しい顔を笑わせて、ソファの愛宕壱の隣に座った。
「先輩、なんか、例のやつ、院内の立場関係って、どう思います?」
「うん?」山下美月は表情を明るくして、コーヒーを手に取った。「ああ、資格保有者が、どうのこうの、て、やつだったっけ?」
「はいその、資格ってところですけど」久保史緒里は真剣に言う。「医師と看護師っていうのは、直下の上下関係になるんで、よくわかるんですけどぉ……。医師免許を持つと、例えば、理学療法士の私なんかより、上の存在になるって事ですか?」
叫び始めた愛宕壱へと歩み寄り、愛宕壱とその両手を繋ぎながらしゃがみ込んで、山下美月は考える。
「う~ん……、簡単に言っちゃえばー、お給料が違うよね?」
「え、どの、っくらい違うんですか?」
「うん、そゆのは、ね。わっかんないけどぉ……」山下美月は愛宕壱に微笑みながら、言葉を続ける。「医師免許、資格よね。が、あると~、専門知識を公認される事になるから、治療行為、というか、診断ができるわけよね」
「ふんふん」久保史緒里は唇を尖らして二回ほど頷いた。
「診断をして、看護師とかぁ、史緒里のさ、理学療法士とか?」
「はい」
「がさ、その診断に従って、介助したり、リハビリしたり、するわけよね?」
「はい。つまり、医師は上の存在で、今、院内で問題になってる看護師たちと医師たちとの人間関係問題は、医師たちの方が正しい、て事ですよね」
山下美月は唇を尖らせて、小首を傾げた。
久保史緒里はそう会話している間も、ふわふわとした雰囲気(ふんいき)のままコーヒーを飲みながら、黙って愛宕壱の症状を観察していた。
「先輩、愛宕さんて、要介護いくつですか?」
「ん? 確か、要介護は2かな」山下美月は愛宕壱に微笑んだ。「まだ、意思の疎通(そつう)ができるもんね~? 愛宕さあん」
「美月ちゃ……。みづ、美月ちゃ……」
「金城先生の診断ですか?」
久保史緒里は、愛宕壱を見つめて言った。
「そうだよ~。そのあと、私も相談されて、私も要介護2の線でおしたの。愛宕さん、自分で歩けるもんね~?」
「あああ……。美月ちゃ……」
「ふうん」
久保史緒里は山下美月に、にこり、と笑みを浮かべて立ち上がった。
「私がもし患者さんだったら、美月先輩に面倒見てもらいたいな~」
「見てあげるよう?」山下美月は久保史緒里を見上げて、微笑んだ。「じゃあ、私の方が長生きしなきゃだね」
「あはは」
久保史緒里はカラのコーヒーカップをトレーに乗せて、ドアの前まで小走りした。
「ヤバ、ていうか私、この後、リハビリの患者さんいっぱいでした」
「おお、がんばれ」山下美月は微笑む。「何かあったら、いってね。リハビリも手伝うから」
「いいんですう、先輩はセラピスト、私らより上なんだから」久保史緒里はにこっと笑った。「ああヤバいヤバい、ゆっくりコーヒー飲んでる場合じゃないよ……」
「がんば~」
「はあ~い」
扉が開く。
「先輩、今夜でもいいけど、近々、パーティーしませんか?」
山下美月は、愛宕壱の背をさすりながら、不思議そうな表情を浮かべた。
「うっわ。史緒里から人を誘うなんて、めっずらし……。パーティー?」
「はい。そろそろ、たぶんいいこと、あるんです。それじゃ行って来ます、先輩!」
「あ、は~い」
扉は、閉まった。
「パーティーか……」
山下美月はそう呟き、愛宕壱をゆっくりとソファから立たせると、間もなくして、その部屋から退出した。
『ポケットいっぱいの涙』
作 タンポポ
2
最後の送迎バスを病院の正面玄関で見送り、山下美月は更衣室へと向かう。歩きながら先ほど久保史緒里から届いた一件のラインを開いた。
久保史緒里
美月先輩♡
伝えたい事 あります。
今夜いかがですか?
山下美月は、白衣から私服へと着替えながら、ラインを操作して、返答をする。
美月
飲むならキャンキャンにする?
それとも食事ならリゼクシー?
久保史緒里
今夜はセブンティーンで
飲みませんか?
私、おごります。
美月
景気良いねえww
セブンティーンって
北千住だっけ?
一回しか行った事ないや
久保史緒里
地図送りますね。
先に行って待ってます。
あ、先輩電車、ですよね?
車、運転してこないで下さいね
帰りタクシーで送りますので。
美月
おけ。じゃあ、行くわ
場所送って
山下美月は、送られてきたURLを開いて、数秒間で納得を落とした。北千住にあるBAR〈セブンティーン〉は、東京木乃原記念病院からタクシーで二十分ほどの場所にあった。
作品名:ポケットいっぱいの涙 作家名:タンポポ