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アルスカイダルの非常階段

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  アルスカイダルの非常階段
               作タンポポ



       1

 電話は繋がらない――。
 このまま電話が繋がらなければ、私には、死が待っているのだろう――。
 人間社会に守られて生きていると妄想を抱いていた事が虚しい。
 人間は誰にも守られていない。殺意を感じたのならば、一人で逃げ回るしかない。
 そもそも、社会はソリッド、超個体だったじゃないか。多数の個体から形成され、まるで一つの個体であるかのように振る舞う生物の集団の事だ。経済学者カール・メンガーは社会の成長の進化的性質について詳述したが、方法論的個人主義を捨てたわけではなかった。
 メンガーは、社会目的論的理由で社会組織が生じたわけではなく、あくまでも『個人』の興味、関心を追求するという経済的主体の無数の努力の結果として社会組織が生まれたのだと主張した。
 十九世紀の思想家ハーバート・スペンサーもメンガーも、選択し行動するのは個人であるから社会全体を有機体と同列に見るべきではないとしたが、メンガーの方がその点を特に強調した。スペンサーは社会構造を詳しく探求する際に有機体的アイデアを採用しているが、それが主としてアナロジーだったと認めている。したがってスペンサーにとって超個体のアイデアは、生物学や心理学の上に社会的現実の別個の階層を明示したもので、有機体のアイデンティティと一対一に対応するものではなかった。
 しかし今現在、社会は液状化社会と謳われている。近代以前のリスクは自然災害や飢饉(ききん)、内乱や戦争、伝染病が代表だった。そのレベルは激烈であったとしても、あくまで局所的、一時的なものが主だった。
 近代以降になると、それらのリスクを管理する防災や医療などの仕組みが整備されてくる。それらを下支えしてきたのが、科学技術だった。だけど、その一方では別のリスクが顕在化してしまった。
 その一つが国家統治の弛緩(しかん)に伴うリスクで、それはテロや民族・宗教対立をもたらした。もう一つのリスクが、『新しいリスク』と、そう呼ばれるものだ。
 これは科学技術そのものが新しいリスクを生じさせ、グローバル化させつつあるとい
うものだ。気候変動がそうだし、原発事故をその中に入れる事も可能だろう。社会学者のベックの言葉を借りるならば、社会全体がかつての『富の分配』から『リスクの分配』へと変化したと捉える事もできる。
 それに、新型コロナは近代以前であればローカルな風土病のレベルでしかなかっただろう。しかしそれは、グローバル化の波に軽々と乗って、世界中に蔓延する事になった。
 他方で、リスクを受け止める方にも大きな変化が訪れている。社会学者のバウマンは、個人に規範を示していた固い、ソリッドな社会が崩壊し、個人が自由を享受(きょうじゅ)できるとともに責任をも担う事が要求される『液状化社会』の到来を指摘した。
 液状化した近代はリキッド・モダニティと呼ばれ、従来の『堅固(けんご)』で『重厚な』近代社会と対比させる。リキッド・モダニティにおいては、制度や価値観などが流動性の中に置かれる事になるのだけれど。液状化社会などと総体で見た人間の生き方をどう評価しようと、それは嘘なのだ。社会は液体ではない――。液体は分離と合体を繰り返せる。いつでも本体から一度離れたものがかえってこれる仕組みになっている。
 しかし、人間社会は違う――。人は生活を組み立てる為の共同体となり、集落を造る。生きる為には助け合うだろう。しかしそれだけだ。
 一度離れてしまった液体は、もうその巨大な液体には戻れない……。
 人間は生きる為に都合のいい話をでっちあげる。常識はその塊だ。だから、一度離れてしまった液体は、その巨大な集合体から見ると、もう汚れてしまった、廃棄的な産物でしかないのだ。
 信じるに値しない、都合の悪い存在。
 私はそうなってしまった……。
 眼の前からずっと駅前の道路にまで延びているガードレール。そのガードレールに守られた路をゆっくりと当たり前のように歩きながら、犯人は、きっとここに来る。
 狂気に支配された殺人者が、今に私の息の根を止めに来る――。
 私は、必死になってやっと発見した公衆電話に縋(すが)る。何度も何度も、一向に繋がろうとしない電話を掛けなおす。後少ししたら、すぐにここも危険になる。もう少しで移動しなくてはならない。また別の公衆電話を見つけなければいけない。
 脚が棒のようにひりひりと痛み始めていた。
 もう、何もかもうを諦めたい……。それでも、死にたくはない……。嘘で固められた毎日。私にはわかってしまった。
 気が狂いそうだった。
「お願い……、かかってぇ……」

 さくらはか細い声を強く発声させた。公衆電話に泣き声のような囁きが木霊する。しかし、強く握られた受話器からは、また望まぬ答えが告げられる。
 さくらはそこを出た。前方と後方を交互に振り返るように必死に確認する。
 そして走り出した――。
 駅から遠ざかる方向に向かってさくらは息を切らせる。擦れ違う瞬間に集まる通行人の視線を気にせずに、さくらは全力疾走に近い脚並みで大地を蹴った。
 逃げなければならない。さくらはその言葉を何度も頭に流し反芻(はんすう)する。消えた皆の事を思うと泣きそうになった。
 飛び込んだコンビニエンス・ストアで止まっていたスマートフォンの充電器を入手した。これで移動しながらでも電話が使える。さくらはまたすぐに店を出て、そして走った。
 何処へ向かうでもなく、今はただ走らなければならない。何処かで誰かが自分の事を観察している。気が付いたのだから、次に消されるのは間違いなく自分だろう――。
 もう残りは三組、つまり六人しか残っていないのだから、今までの法則性が通用する約束はない。でも……。
 たぶん、次は私が消える番なんだ。
 駅から断続的に続いている銀杏の植木。夕闇に厚く浮かび上がった都会の影と同化する黒いアスファルト。眼忙(めまぐる)しく擦り抜けていく景色は、やはり急ぐさくらに多少の安堵感を齎(もたら)した。
 駅だ……。
 そう頭の中で呟いた後には、すぐに公衆電話を探していた。しかし公衆電話を発見した後に、強く握りしめているスマートフォンに気が付く。電話が機能していた事を忘れていた。携帯用充電器を接続してある電話は、嬢王蟻の腹のように接続した下部が歪に膨れ上がっている。そんなゴテゴテとしたものを握りしめていたにもかかわらず、さくらは公衆電話を探すために駅まで走ってしまった。
 誤りだ。でなければ、何の為に駅に飛び込んだのだろうか。すでに連絡手段はその手に確保してあるではないか。
 自分は焦っている……。
 多少の冷静を取り戻した時、急に視界に人間達の姿が映り始めた。背広を着た男性社会人、プラダのバッグを何気なく手に提げている私服の女性、改札口前にある大きな柱に寄り掛かって、煙草を吸っている数人の若者達。その誰もが自分を冷たく見つめている。
 いや、見ているのは数人だけだ。自分は注目の対象になっている。さくらはようやく
取り戻し始めた多少の冷静さで、改めて現在の自分を見つめた。