アルスカイダルの非常階段
右足かかと部分のヒールが折れて左右の段差を作っている青いハイヒール。擦り剝けた膝小僧からは血が滲んでいた。当初、水色で統一されていたキャミソールは、太もも部分と、腹部の辺りが泥で黒ずんでいる。
大きく肩を揺らす呼吸。
乱れた前髪は、汗でばらばらに顔にかかっている。
長いうしろ髪も、首のあたりで汗に塗れ、キャミソールから露出した背中にべっとりと張り付いているようだった。
駅全体から集中されていた視線が、徐々に拡散されていく。
自分はそういう存在なのだ。
こんな姿で駅に飛び込んだまま、仁王立ちして前方を凝視している。
注目しないでくれという方が、無理な話だ。
しかし、この注目でさえ、今はもう終わろうとしている……。これが、信じられない、社会の現実なのだ。
さくらはそのまま、何事もなかったかのように、かかとを欠いたハイヒールでびっこをひきながら歩き始めた。
とりあえずは駅の反対側に出る。広いロータリーのあるデパート街だった。都会色の強いこちら側は歩く人間も多い。薄汚れた格好でびっこのハイヒールをひきずっていれば、否が応でも注目されるだろう。しかし、そんな事は、もうどうでもよかった。
私は死にたくないだけだ。
さくらは手に握っていたスマートフォンを耳に付ける。それからすぐに、歩行を止めぬまま、番号を選択していない事に気付いた。歩く背景には代わる代わるで人間の視線が刺さってくる。
急激な疲労感がいっぺんに襲って来た。それからすぐに不安定な憤怒を強く覚える。さくらは唇を嚙みしめたまま、次の目的地を考える。その顔は最後の道徳観を自分に縛り付けるような、そんな泣きべそだった。
電話はやはり繋がらない。
空腹感を少しだけ感じる。自宅には幾らでも食料品が残っているが、それは出来ない。自宅に戻るのはおそらく危険だろう。ならば何処かで空腹を満たすしかない。それならばやはり客のいる飲食店が安全だろう。
流れるような思考は常に安全性を求めている。とにかく、電話が繋がるまでは、生きていなくてはならない。死を避ける意識は当然だが、それだけではない。この事を矢久保美緒ちゃんにも伝えなくてはならない。
途中で見つけたチェーン店の牛丼屋で、軽く空腹を満たす事にした。この姿では普段使っている飲食店には入れない。小さな妥協を当たり前に感じながら、さくらはその自動ドアを開いた。
「いらっしゃいませえっ」
景気の良い声は、誰であろうとも快く迎え入れるように鍛えられている。少しだけ救われたような気さえ錯覚する、そんな明るく心地良い発声であった。
さくらは店内の端に進み歩き、一番左端のカウンター席に腰を下ろした。すぐに声をくれた笑顔の店員に牛丼の並みを注文して、スマートフォンを見つめた。
画面上に――2022年5月8日――という表示が出現する。
それが今日だった。それは疑う余地もない事実である。何の変哲もない、今日なのだ。
つい疑ってしまうのは自分自身であった。なぜ、自分はこんな大変な思いをしているのだろうか。なぜ泥まみれになり、汗をかいているのだろうか。昨日買ったばかりのハイヒールが、どうして一日でこうなってしまったのか。
眼の前に出された牛丼に、節操もなくかぶりついた。空腹感をそうでもない。しかし、そうしたかったのだ。
丼を持ち上げ、ご飯を口にかき込みながら、さくらの眼はカウンターに置かれているスマートフォンを見つめていた。
あら、光夫なら……、出張に出てるけど……。
丼を一度カウンターに戻し、さくらは噛みかけのご飯を口の中に留めたままで、止まった。
そのままカウンターに伏せるようにして、さくらは泣き始める。
そう言われてもねえ……。確かに、会社の方からそういうお電話をいただいたのよ。間村さんって言ってたかしら……。さくらちゃん、知ってる?
カウンターに置かれたままのスマートフォンには、戸島光夫(とじまみつお) と登録された電話番号が表示されていた。
どこに出張したか、さくらちゃん知らない?
2
2022年4月28日。今宵催される事になっている新入社員歓迎会の参加不参加に、さくらは迷っていた。
学生時代に噛り付いた勉強という文化には、少なくともそういった行事は存在しなかった。それは俗世間で学ぶ事だとさくらは心得ている。しかし、勉強という文化に身を置き続けてきたさくらは俗世間の学び事を知らない。それは当たり前である以前に、仕方のない事なのだ。勉強文化にこだわってこそ、手に入れた大手アパレル会社への就職であった。そんな一方通行の文化に人間との社交場は存在しない。
さくらは迷っていた。もうそろそろ、勤務時間が終了してしまう。それまでに参加か不参加を決定しなければならない。尚、不参加の場合にはそれなりの理由を提示するとの事だった。
そんな事は勉強文化にはなかった事だ。あったとしても、スルーして来た。不参加の理由と言われても、そんなに容易に思い浮かぶものでもない。しかし、やはり参加した挙句にはおそらく更に辛い試練が待っているだろう。
しかし、やはり歓迎会とまで言われているのだ、入社したてのほやほやならば、これからの事を踏まえて少し会社の顔を立ててやる必要もある。
さくらはデスク仕事を順調にこなしながら、内面で辛辣(しんらつ)に悩み耽(ふけ)っていた。
参考書とノートにばかり親近感を覚えていたさくらは、俗にいう流行事とは何ら縁のない学生であった。学生の本分は勉強である。それを信じ理解していたからこその、さくらの偏差値である。それは近い将来必ず役に立ってくれるのであろう。咲希の不安な未来という構図には、必ず偏差値という礎(いしずえ)があった。
しかし、俗にいう流行事にも、やはり興味を抱かないというわけではない。さくらは興味を抱かないのではなく、抱けなかったのである。天才でない自分は、こうして日々勉強に勤しまなければ思う通りの進学を逃してしまうだろう。昔から自分の興味を弄(もてあそ)ぶ流行事というものは、大学に進学し、そこを無事に卒業した後でたっぷりと経験しよう。
将来は流行事という文化に身を置こう。その為に、今は勉強をするだけだ。
そうして実現した大手アパレル会社への就職であった。しかし働き出してから一カ月も満たぬうちに、試練と名の付くものが現れたのである。それが、『新入社員歓迎会』であった。
なんでもそれは、この会社での名物、毎年恒例の行事となっているらしい。
ややこしい、実にややこしい。さくらは涼しい顔でPCのキーボードを打つ。
やはり、この問題は簡単なものではない。容易に答えを出しては今後の立場を危うくしてしまうかもしれない。さくらはPC画面でおよそ無関係な情報を器用に取り入れながら、それとは別に己の思考を繰り広げる。
勉強文化に社交場はないが、相談というものはあった。さくらはキーボードを打ち込みながら仄かな溜息を吐いた。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ