にゃんこなキミと、ワンコなおまえ4-1
駆け込んだホテルのロビーは広くて、天井が高いからか開放的だった。
全力疾走で乱れた息を、義勇は深く深呼吸して整える。ハァッと大きく息をついたのは杏寿郎も同様だけれど、息が整うのは義勇より早い。剣道部主将は伊達じゃないといったところか。
杏寿郎は受験シーズン真っ只中であっても家の道場での稽古は欠かさないから、義勇よりも体力があるんだろう。若いからとは言わないでおく。義勇との差はたった十五ヶ月だ。
槇寿郎が指南してくれた護身術の鍛錬は欠かしていないが、体力自体が以前にくらべ落ちている。忙しくて怠けがちだった筋トレを再開しよう。義勇はちらりと見やった杏寿郎の横顔に、密かに誓った。
クリスマスといえばホテルだって書き入れ時だろうが、時刻のせいかロビーに人影は多くない。客はみなとっくにチェックインを済ませ、イルミネーションや温泉を楽しんでいるんだろう。バタバタと慌ただしく駆け込んでは、さぞや非難の視線が集まるだろうと少しばかり心配だったが、やれやれだ。義勇は安堵の小さなため息をそっと噛み殺した。
傍らの杏寿郎は、いつもと変わらぬ人好きする好漢に戻っている。ほんの数分前に見せた鬼気迫る形相など跡形もない。
「ギリギリだが間にあったなっ。スカイラウンジは八階だ。行こう、義勇」
微笑む杏寿郎に、義勇はパチリと一つまばたいた。つい笑みがもれる。
「義勇?」
いつもと同じでもなかったな。気づいてクスクスと笑った義勇に、杏寿郎はキョトンとしつつも、少しだけうろたえたように見えた。傍目にはわからないだろうけれど。
慣れぬ場所への緊張なんて、日ごろはまったく感じる様子がないのに、今日ばかりは勝手が違うらしい。動じぬ笑顔の裏に、初々しい緊張がほの見える。気負いが杏寿郎の笑みをほんの少し固くしていた。
とはいえそれはささやかすぎて、気づくのは義勇くらいなものだろう。
胆力のある男なのはたしかだけれど、杏寿郎だって、世間からすればまだ経験の浅い子供にすぎないのだ。大人の振る舞いを求められる場所への緊張に、わずかばかり肩に力が入っているし、口角が少しだけ引きつってる。
イラストレーターの宇髄が言う「眉の角度が〇.五ミリ違うだけで、表情がまったく別物になる」というボヤキを、杏寿郎の表情でこういうことかと納得する。見る人によっては気づきもしないだろう、ささやかすぎる違い。
間違い探しはきっと正解だ。杏寿郎のことならば、どんなに些細だろうと、義勇はちゃんと見抜ける。それがうれしい。
「なんでもない。ホテルのレストランに二人だけでくるなんて初めてだから、ちょっと緊張してるみたいだ。……でも、エスコートしてくれるんだろ?」
浮かんだ笑みはそのままに、ほんの少しのからかいを込めて義勇が言えば、杏寿郎の顔に喜悦が浮かぶ。緊張もちょっぴり高まった気配がするけれど。
「うむっ、もちろんだ。任せてくれ」
精一杯慣れているふうを装っても、杏寿郎は高校生だ。ホテルを利用するなんて、家族旅行や宇髄たちに同行する以外にない。今までは全部、引率される立場である。経験値は義勇とまったく一緒のはずだ。
義勇の数少ない旅行の経験は、修学旅行を除けばすべて杏寿郎と一緒だ。出逢って以降、家族旅行や友人たちとの旅行の写真には、全部、義勇の隣には杏寿郎がいる。
少しだけ力みを感じる杏寿郎の声は、それでもいつもよりちょっと抑えめだ。日ごろのトーンでないのは、場所柄をわきまえてだろうか。それとも、義勇に大人に見られたいがための努力の一貫か。いずれにせよ、義勇にしてみれば微笑ましいばかりである。
義勇だって緊張しているという言葉に嘘はない。けれど杏寿郎が一緒なら、失敗さえも楽しい思い出話になるだけだ。緊張しつつも気は楽だった。
胸の奥で増した不安をかき消してくれるなら、失敗だってうれしい。いっそなにかドジってくれたらいいのにとすら願う自分に気づき、義勇は、知らず震えそうになった体を無理やり抑え込んだ。
大丈夫だ。自分に言い聞かせる。二人で大笑いできたら、きっと怖さも忘れられるだろう。
脳裏に焼きついた物騒な一幕は、固く閉じ込めている記憶を呼び覚まそうとする。思い出したが最後、叫んでしまいそうで、義勇は無理やりそれを頭から追い払った。
二度とあんなのは見たくない。杏寿郎はかわいい犬でいいのだ。かわいくて、頼りがいがあって、一生義勇と一緒と笑う、世界一やさしい犬で大事な恋人。そういう、いつもの杏寿郎がいい。
杏寿郎に手を引かれ向かったのはフロントだ。エレベーターじゃないのかと、義勇が戸惑いの視線をやれば、杏寿郎はすぐに気づき微笑み返してくる。
「コートを預けてから行こう。邪魔だろう?」
「え?」
キョトンと目をしばたかせた義勇は、すぐにその目をムッとすがめた。
睨みつけても杏寿郎は平然としたものだ。それどころか、心なし自慢気にさえ見える。
「……部屋はとってないって、言ってなかったか?」
フロントマンに聞こえぬよう小さな声で叱っても、杏寿郎はケロリとしている。動じる気配はない。
「嘘なんかついてないぞ。レストランの利用だけでもクロークは使えるんだ」
こともなげに言う杏寿郎に、義勇は思わず首をひねりそうになる。土産は車に置いてきたから、義勇は完全に手ぶらだ。杏寿郎だって、土産と入れ替えにひっつかんできたキャンパストートを肩に下げてはいるが、大きなものではない。プレゼント交換するのは後にしようと、紙袋だって置いてきた。
クロークを利用するほどでもなかろうに。ますます戸惑う義勇をよそに、さっさとマフラーとコートを脱いだ杏寿郎は、フロントマンに笑みを向けていた。
「レストランの予約をしている煉獄です。荷物を預かっていただけますか」
「いらっしゃいませ。煉獄さま……はい、承っております。お預かりいたします」
堂々としたやり取りは、なんだか手慣れている。家族旅行はもちろん、宇髄たちと旅行に行ったときだって、こういうことは任せきりだったのに。
ポカンとした義勇を振り返り見た杏寿郎は、穏やかに笑いさえした。
「義勇、コートとマフラーを」
「あ……うん」
やわらかく笑って言う声音すら、常のハキハキとした喋り方とはちょっと違う。いかにも穏やかで、経験の深さを感じさせる口調だ。
普段の杏寿郎を言い表すなら、快活だとか朗らかといったいかにも少年らしい言葉になる。だが、目の前の杏寿郎はどうだ。落ち着き払った鷹揚とした笑みを見ていると、理知的だの紳士的だのといった言葉ばかりが浮かぶ。成熟した大人の男性だと言わんばかりだ。
義勇があわてて外したマフラーをさり気なく受け取る仕草も、どことなし貫禄を感じる。温和に微笑む顔は、静かなくせに精悍で、子供だなんてとうてい言えない。にじみ出る雄のフェロモンにクラクラしそうだ。
オフホワイトのニットから覗く鎖骨のくっきりとした陰影に、いったい今日一日で何度ドキリとさせられているのやら。見慣れているはずなのに、ドギマギとしてしまってどうしようもない。
全力疾走で乱れた息を、義勇は深く深呼吸して整える。ハァッと大きく息をついたのは杏寿郎も同様だけれど、息が整うのは義勇より早い。剣道部主将は伊達じゃないといったところか。
杏寿郎は受験シーズン真っ只中であっても家の道場での稽古は欠かさないから、義勇よりも体力があるんだろう。若いからとは言わないでおく。義勇との差はたった十五ヶ月だ。
槇寿郎が指南してくれた護身術の鍛錬は欠かしていないが、体力自体が以前にくらべ落ちている。忙しくて怠けがちだった筋トレを再開しよう。義勇はちらりと見やった杏寿郎の横顔に、密かに誓った。
クリスマスといえばホテルだって書き入れ時だろうが、時刻のせいかロビーに人影は多くない。客はみなとっくにチェックインを済ませ、イルミネーションや温泉を楽しんでいるんだろう。バタバタと慌ただしく駆け込んでは、さぞや非難の視線が集まるだろうと少しばかり心配だったが、やれやれだ。義勇は安堵の小さなため息をそっと噛み殺した。
傍らの杏寿郎は、いつもと変わらぬ人好きする好漢に戻っている。ほんの数分前に見せた鬼気迫る形相など跡形もない。
「ギリギリだが間にあったなっ。スカイラウンジは八階だ。行こう、義勇」
微笑む杏寿郎に、義勇はパチリと一つまばたいた。つい笑みがもれる。
「義勇?」
いつもと同じでもなかったな。気づいてクスクスと笑った義勇に、杏寿郎はキョトンとしつつも、少しだけうろたえたように見えた。傍目にはわからないだろうけれど。
慣れぬ場所への緊張なんて、日ごろはまったく感じる様子がないのに、今日ばかりは勝手が違うらしい。動じぬ笑顔の裏に、初々しい緊張がほの見える。気負いが杏寿郎の笑みをほんの少し固くしていた。
とはいえそれはささやかすぎて、気づくのは義勇くらいなものだろう。
胆力のある男なのはたしかだけれど、杏寿郎だって、世間からすればまだ経験の浅い子供にすぎないのだ。大人の振る舞いを求められる場所への緊張に、わずかばかり肩に力が入っているし、口角が少しだけ引きつってる。
イラストレーターの宇髄が言う「眉の角度が〇.五ミリ違うだけで、表情がまったく別物になる」というボヤキを、杏寿郎の表情でこういうことかと納得する。見る人によっては気づきもしないだろう、ささやかすぎる違い。
間違い探しはきっと正解だ。杏寿郎のことならば、どんなに些細だろうと、義勇はちゃんと見抜ける。それがうれしい。
「なんでもない。ホテルのレストランに二人だけでくるなんて初めてだから、ちょっと緊張してるみたいだ。……でも、エスコートしてくれるんだろ?」
浮かんだ笑みはそのままに、ほんの少しのからかいを込めて義勇が言えば、杏寿郎の顔に喜悦が浮かぶ。緊張もちょっぴり高まった気配がするけれど。
「うむっ、もちろんだ。任せてくれ」
精一杯慣れているふうを装っても、杏寿郎は高校生だ。ホテルを利用するなんて、家族旅行や宇髄たちに同行する以外にない。今までは全部、引率される立場である。経験値は義勇とまったく一緒のはずだ。
義勇の数少ない旅行の経験は、修学旅行を除けばすべて杏寿郎と一緒だ。出逢って以降、家族旅行や友人たちとの旅行の写真には、全部、義勇の隣には杏寿郎がいる。
少しだけ力みを感じる杏寿郎の声は、それでもいつもよりちょっと抑えめだ。日ごろのトーンでないのは、場所柄をわきまえてだろうか。それとも、義勇に大人に見られたいがための努力の一貫か。いずれにせよ、義勇にしてみれば微笑ましいばかりである。
義勇だって緊張しているという言葉に嘘はない。けれど杏寿郎が一緒なら、失敗さえも楽しい思い出話になるだけだ。緊張しつつも気は楽だった。
胸の奥で増した不安をかき消してくれるなら、失敗だってうれしい。いっそなにかドジってくれたらいいのにとすら願う自分に気づき、義勇は、知らず震えそうになった体を無理やり抑え込んだ。
大丈夫だ。自分に言い聞かせる。二人で大笑いできたら、きっと怖さも忘れられるだろう。
脳裏に焼きついた物騒な一幕は、固く閉じ込めている記憶を呼び覚まそうとする。思い出したが最後、叫んでしまいそうで、義勇は無理やりそれを頭から追い払った。
二度とあんなのは見たくない。杏寿郎はかわいい犬でいいのだ。かわいくて、頼りがいがあって、一生義勇と一緒と笑う、世界一やさしい犬で大事な恋人。そういう、いつもの杏寿郎がいい。
杏寿郎に手を引かれ向かったのはフロントだ。エレベーターじゃないのかと、義勇が戸惑いの視線をやれば、杏寿郎はすぐに気づき微笑み返してくる。
「コートを預けてから行こう。邪魔だろう?」
「え?」
キョトンと目をしばたかせた義勇は、すぐにその目をムッとすがめた。
睨みつけても杏寿郎は平然としたものだ。それどころか、心なし自慢気にさえ見える。
「……部屋はとってないって、言ってなかったか?」
フロントマンに聞こえぬよう小さな声で叱っても、杏寿郎はケロリとしている。動じる気配はない。
「嘘なんかついてないぞ。レストランの利用だけでもクロークは使えるんだ」
こともなげに言う杏寿郎に、義勇は思わず首をひねりそうになる。土産は車に置いてきたから、義勇は完全に手ぶらだ。杏寿郎だって、土産と入れ替えにひっつかんできたキャンパストートを肩に下げてはいるが、大きなものではない。プレゼント交換するのは後にしようと、紙袋だって置いてきた。
クロークを利用するほどでもなかろうに。ますます戸惑う義勇をよそに、さっさとマフラーとコートを脱いだ杏寿郎は、フロントマンに笑みを向けていた。
「レストランの予約をしている煉獄です。荷物を預かっていただけますか」
「いらっしゃいませ。煉獄さま……はい、承っております。お預かりいたします」
堂々としたやり取りは、なんだか手慣れている。家族旅行はもちろん、宇髄たちと旅行に行ったときだって、こういうことは任せきりだったのに。
ポカンとした義勇を振り返り見た杏寿郎は、穏やかに笑いさえした。
「義勇、コートとマフラーを」
「あ……うん」
やわらかく笑って言う声音すら、常のハキハキとした喋り方とはちょっと違う。いかにも穏やかで、経験の深さを感じさせる口調だ。
普段の杏寿郎を言い表すなら、快活だとか朗らかといったいかにも少年らしい言葉になる。だが、目の前の杏寿郎はどうだ。落ち着き払った鷹揚とした笑みを見ていると、理知的だの紳士的だのといった言葉ばかりが浮かぶ。成熟した大人の男性だと言わんばかりだ。
義勇があわてて外したマフラーをさり気なく受け取る仕草も、どことなし貫禄を感じる。温和に微笑む顔は、静かなくせに精悍で、子供だなんてとうてい言えない。にじみ出る雄のフェロモンにクラクラしそうだ。
オフホワイトのニットから覗く鎖骨のくっきりとした陰影に、いったい今日一日で何度ドキリとさせられているのやら。見慣れているはずなのに、ドギマギとしてしまってどうしようもない。
作品名:にゃんこなキミと、ワンコなおまえ4-1 作家名:オバ/OBA