星溶け菫のカクテル
真っ暗な会場は、まるで夜の海のようだった。
足元で鈍く光を放つそれを探して闇の中を歩く。
小さな囁きが潮騒のようで、
私は飲み込まれてしまわないように真っ直ぐに前を向いた。
月明かりが私を照らせば、波の音は消えていく。
この瞬間、私はいつも不安に駆られるのだ。
海に引きずり込まれるのではないかと。
暗い海の底にいるのか、はたまた夜闇の中に立っているのか分からなくなる。
けれど私は一つの星を見つけた。大丈夫、もう怖くない。
前奏曲 家出息子のプレリュード
私は急いでいた。仕舞い込んでいたボストンバッグを引っ張り出し、手当たり次第に服を詰めていく。下着と靴下も入れた。靴は履いていくし、歯ブラシなどの生活用品は途中で買えばいい。あとは……と部屋を見回す。机の引き出しを一段ずつ開けて、忘れ物がないか確認する。海外に行く気はないが、身分を証明するものとしてパスポートは必要だろう。もう一つの身分証明書は直使えなくなるのだから。
これでよし、とボストンバッグのチャックを閉めて立ち上がる。財布と携帯もある。もうこれ以上持って行くものはない、と小さく頷いたところで、ベッドの上に放り投げていたハードケースが目に入る。
持って行くつもりはなかった。こんなことになってしまった元凶だから。それなのに。
「司さん、司さん! どこにいるのですか」
母親が私を呼ぶ声がして、焦った私はそれを掴んでいた。毎日毎日握っていたハンドルは、嫌と言うほど手に馴染む。邪魔にしかならないそれも、手持ちのお金が尽きたら売ってしまえばいいのだと自分に言い聞かせた。
足音がすぐそこまで迫っている。私はあらかじめ玄関から持ってきていた靴を手に勝手口へ向かうと、裏手の扉から外へ出た。
もう二度と戻らない、そんな気持ちを抱えて走り出した。友人はおらず、当てもない。資金が潤沢にあるわけではない。遠くには行けないけれど、せめてこの海沿いに位置する街から少しでも離れたくて駅へ向かった。
電車の切符を適当に買い、ホームへの階段を駆け上がる。追ってきてはいないだろうけれど、そうしたい気分だった。
平日の昼間だけあって車内には指折り数えるほどの人間しかいない。私は端っこに一人で座ると、荷物を膝の上に乗せた。どこで寝泊まりしよう、自分で稼がなければ。そんなことばかり考えていると、車内アナウンスが次の停車駅を知らせる。先程購入した切符の駅名だと気付いた司は膝の上の荷物を手に立ち上がった。
こんな時でも頭の中で音楽が流れているから不思議なものだ。リストの交響詩『レ・プレリュード S.97』。私の人生はここから再びスタートするのだと颯爽と電車を降りる。
ようやく自由を得たのだと、高らかに歌いだしたい気分……になると思っていた。けれど私の心は、翳ったままだった。
第一楽章 星の歌
カランコロン、と控えめな鐘の音が来客を告げれば、出迎えてくれるのは見目麗しい男性スタッフ。
「いらっしゃいませ、お姫様」
ここ、ジャズバー【Knights】は今夜も大盛況。老若男女を問わず席を埋める客たちの目的は店内に流れるジャズと、美味しいアルコールと料理の数々、そして││
「それではお時間になりましたので、本日一曲目をお送りします」
ぱっと明るくなった店内の一角に設けられた小さなステージ。マイクを通した泉の声に誰も彼もが会話を止め、手にしていたカトラリーを置く。
「有名な曲なので知っている方も多いのではないでしょうか。デューク・エリントンで『A列車で行こう』」
余計なことを語らない彼が曲の紹介を終えると、ドラムを担当する嵐のカウントが始まる。
そう、ここは眉目秀麗なスタッフたちによる生演奏が楽しめるジャズバー。18時にオープンし、19時、20時半と二度の生演奏が行われる。
それ以外の時間も店内ではジャズが流れているのだが、やはり殆どの客が彼らの生演奏を楽しみにこの店に通っていると言っても過言ではない。オープンの一時間前から並ぶ客も珍しくなく、22時の閉店まで満席の状態が続く。
これから始まるのは、そんなジャズバーで紡がれる小さな恋の歌だ。
*
私がこの店を見つけたのは昨年の冬。偶然見つけたそのバーに入れたのは、しんしんと雪が降っていたからかもしれない。客は座席の数の半分といったところだろうか。この時は気にもしていなかったが、あの雪の中これだけの席が埋まっていたのであれば、やはり人気店なのだなと思う。雪が降っていなければ店に入ることもなく、今ここにいる未来もなかったのかと思うと少しぞっとした。閑話休題。
重い扉を押して中に入れば、ほの暗い店内に流れるジャズ。メニューを開けばアルコールも、ノンアルコールも種類が豊富で思わず悩んでしまうほどだった。更にもう一つ置かれているメニューを開けば、バーとは思えないほど充実した料理の数々。オーダーを取りに来たレオ曰く、ハンバーグが絶品らしい。次いで人気なのはパイ生地のピザ、シーフード。
お腹の空いていた私は勧められるままにハンバーグとカシスオレンジを注文した。ドリンクを持ってきた凛月は、驚いたように目を丸くするとゆっくりしていってねと微笑んだ。後から分かったことだけれど、この年頃の男子が一人で訪れることが珍しかったのだとか。
生絞りのオレンジが入ったカシスオレンジは程よく甘酸っぱい。手が込んでいるな、と感心していると嵐がハンバーグを持ってきてくれた。サラダとパンもついている。ナイフを手に取り切り分ければ、溢れる肉汁。堪らず口に含めば、口の中いっぱいに旨味が広がった。
「美味しい……」
豆腐が入っていてヘルシーなのだと説明されたが、嵩を増しているというよりは、ハンバーグをふわふわにしていると言った方が正しいかもしれない。正直そこらのレストラン顔負けの一品だ。
……などと司が一人舌鼓を打っていると、突然視界の端が明るくなった。何事かと思っていると、今から生演奏が始まるらしい。そういえばそんなことがメニューの表紙に書いてあったかもしれない。けれども私はそれほど期待していなかった。舌も耳も肥えた私は、料理がおいしかっただけで十分に満足していたからだ。
ピアノの凛月、サックスのレオ、ドラムの嵐。そしてもう一人、今までホールにいなかった人物がステージに立っている。ライトに煌めく銀糸と冷たいアイスブルーの瞳。黒いジャケットの袖から伸びる長い指がスタンドマイクに手を添える。
「それでは聞いてください、『Take Five』」
静かで軽やかなドラムの音に合わせてピアノがリズムを刻んだ、その瞬間。
歌い始めたその人に、私の目も、耳も、心までもが奪われていた。サックスと共に歌うその人の色っぽさを表現できる言葉などなく、伏し目がちなその表情でさえも曲の雰囲気に合っていた。
思わず落としそうになったナイフを掴み直せば、皿の縁に当たって小さく音が鳴る。反射の様に、こちらに向けられた視線。冬の湖のように澄み切った冷たい瞳と視線が交わった、その刹那。くすり、と口の端が僅かに上がった気がした。
足元で鈍く光を放つそれを探して闇の中を歩く。
小さな囁きが潮騒のようで、
私は飲み込まれてしまわないように真っ直ぐに前を向いた。
月明かりが私を照らせば、波の音は消えていく。
この瞬間、私はいつも不安に駆られるのだ。
海に引きずり込まれるのではないかと。
暗い海の底にいるのか、はたまた夜闇の中に立っているのか分からなくなる。
けれど私は一つの星を見つけた。大丈夫、もう怖くない。
前奏曲 家出息子のプレリュード
私は急いでいた。仕舞い込んでいたボストンバッグを引っ張り出し、手当たり次第に服を詰めていく。下着と靴下も入れた。靴は履いていくし、歯ブラシなどの生活用品は途中で買えばいい。あとは……と部屋を見回す。机の引き出しを一段ずつ開けて、忘れ物がないか確認する。海外に行く気はないが、身分を証明するものとしてパスポートは必要だろう。もう一つの身分証明書は直使えなくなるのだから。
これでよし、とボストンバッグのチャックを閉めて立ち上がる。財布と携帯もある。もうこれ以上持って行くものはない、と小さく頷いたところで、ベッドの上に放り投げていたハードケースが目に入る。
持って行くつもりはなかった。こんなことになってしまった元凶だから。それなのに。
「司さん、司さん! どこにいるのですか」
母親が私を呼ぶ声がして、焦った私はそれを掴んでいた。毎日毎日握っていたハンドルは、嫌と言うほど手に馴染む。邪魔にしかならないそれも、手持ちのお金が尽きたら売ってしまえばいいのだと自分に言い聞かせた。
足音がすぐそこまで迫っている。私はあらかじめ玄関から持ってきていた靴を手に勝手口へ向かうと、裏手の扉から外へ出た。
もう二度と戻らない、そんな気持ちを抱えて走り出した。友人はおらず、当てもない。資金が潤沢にあるわけではない。遠くには行けないけれど、せめてこの海沿いに位置する街から少しでも離れたくて駅へ向かった。
電車の切符を適当に買い、ホームへの階段を駆け上がる。追ってきてはいないだろうけれど、そうしたい気分だった。
平日の昼間だけあって車内には指折り数えるほどの人間しかいない。私は端っこに一人で座ると、荷物を膝の上に乗せた。どこで寝泊まりしよう、自分で稼がなければ。そんなことばかり考えていると、車内アナウンスが次の停車駅を知らせる。先程購入した切符の駅名だと気付いた司は膝の上の荷物を手に立ち上がった。
こんな時でも頭の中で音楽が流れているから不思議なものだ。リストの交響詩『レ・プレリュード S.97』。私の人生はここから再びスタートするのだと颯爽と電車を降りる。
ようやく自由を得たのだと、高らかに歌いだしたい気分……になると思っていた。けれど私の心は、翳ったままだった。
第一楽章 星の歌
カランコロン、と控えめな鐘の音が来客を告げれば、出迎えてくれるのは見目麗しい男性スタッフ。
「いらっしゃいませ、お姫様」
ここ、ジャズバー【Knights】は今夜も大盛況。老若男女を問わず席を埋める客たちの目的は店内に流れるジャズと、美味しいアルコールと料理の数々、そして││
「それではお時間になりましたので、本日一曲目をお送りします」
ぱっと明るくなった店内の一角に設けられた小さなステージ。マイクを通した泉の声に誰も彼もが会話を止め、手にしていたカトラリーを置く。
「有名な曲なので知っている方も多いのではないでしょうか。デューク・エリントンで『A列車で行こう』」
余計なことを語らない彼が曲の紹介を終えると、ドラムを担当する嵐のカウントが始まる。
そう、ここは眉目秀麗なスタッフたちによる生演奏が楽しめるジャズバー。18時にオープンし、19時、20時半と二度の生演奏が行われる。
それ以外の時間も店内ではジャズが流れているのだが、やはり殆どの客が彼らの生演奏を楽しみにこの店に通っていると言っても過言ではない。オープンの一時間前から並ぶ客も珍しくなく、22時の閉店まで満席の状態が続く。
これから始まるのは、そんなジャズバーで紡がれる小さな恋の歌だ。
*
私がこの店を見つけたのは昨年の冬。偶然見つけたそのバーに入れたのは、しんしんと雪が降っていたからかもしれない。客は座席の数の半分といったところだろうか。この時は気にもしていなかったが、あの雪の中これだけの席が埋まっていたのであれば、やはり人気店なのだなと思う。雪が降っていなければ店に入ることもなく、今ここにいる未来もなかったのかと思うと少しぞっとした。閑話休題。
重い扉を押して中に入れば、ほの暗い店内に流れるジャズ。メニューを開けばアルコールも、ノンアルコールも種類が豊富で思わず悩んでしまうほどだった。更にもう一つ置かれているメニューを開けば、バーとは思えないほど充実した料理の数々。オーダーを取りに来たレオ曰く、ハンバーグが絶品らしい。次いで人気なのはパイ生地のピザ、シーフード。
お腹の空いていた私は勧められるままにハンバーグとカシスオレンジを注文した。ドリンクを持ってきた凛月は、驚いたように目を丸くするとゆっくりしていってねと微笑んだ。後から分かったことだけれど、この年頃の男子が一人で訪れることが珍しかったのだとか。
生絞りのオレンジが入ったカシスオレンジは程よく甘酸っぱい。手が込んでいるな、と感心していると嵐がハンバーグを持ってきてくれた。サラダとパンもついている。ナイフを手に取り切り分ければ、溢れる肉汁。堪らず口に含めば、口の中いっぱいに旨味が広がった。
「美味しい……」
豆腐が入っていてヘルシーなのだと説明されたが、嵩を増しているというよりは、ハンバーグをふわふわにしていると言った方が正しいかもしれない。正直そこらのレストラン顔負けの一品だ。
……などと司が一人舌鼓を打っていると、突然視界の端が明るくなった。何事かと思っていると、今から生演奏が始まるらしい。そういえばそんなことがメニューの表紙に書いてあったかもしれない。けれども私はそれほど期待していなかった。舌も耳も肥えた私は、料理がおいしかっただけで十分に満足していたからだ。
ピアノの凛月、サックスのレオ、ドラムの嵐。そしてもう一人、今までホールにいなかった人物がステージに立っている。ライトに煌めく銀糸と冷たいアイスブルーの瞳。黒いジャケットの袖から伸びる長い指がスタンドマイクに手を添える。
「それでは聞いてください、『Take Five』」
静かで軽やかなドラムの音に合わせてピアノがリズムを刻んだ、その瞬間。
歌い始めたその人に、私の目も、耳も、心までもが奪われていた。サックスと共に歌うその人の色っぽさを表現できる言葉などなく、伏し目がちなその表情でさえも曲の雰囲気に合っていた。
思わず落としそうになったナイフを掴み直せば、皿の縁に当たって小さく音が鳴る。反射の様に、こちらに向けられた視線。冬の湖のように澄み切った冷たい瞳と視線が交わった、その刹那。くすり、と口の端が僅かに上がった気がした。