線
耳に心地良い鳶の鳴き声に、島左近は空を見上げた。
青く澄んだ空はどこまでも高く、まさに青天というやつだ。
初夏の昼前ということもあり、日はそこそこ強い。
佐和山の城下。
左近は、その外周に広がる稲の育成具合の視察に来ていた。
水田にはぴんと立ち上がった若い苗が整然と並んでおり、特に害虫や害鳥に脅かされている様子は見られない。
畦道で作業をしていた、笠を被った男に左近は歩み寄り声をかけた。
「精が出ますな」
「これは御家老様!お足元、汚れないようお気をつけ下さい」
自分よりもひと回りほど上であろう男は、人好きのする微笑をもって頭を垂れた。
脚半もつけずに来たこちらの、袴の裾を気にしているのだろう。
ぬかるみの弱い場所を見つけようと視線を巡らせているのがわかり、左近は徐に裾を膝丈までたくし上げる。
「ここの土は良い土ですよ。汚れたところで儲けものだが、一応お気持ちは頂いて、こうしておきましょう」
「お気遣い、感謝申し上げます」
冗談めかして片目を瞑ってみせると、男は安堵したように相好を崩した。
「今年の米は、どうです?」
「今のところ例年どうりでございます。あとは梅雨でしっかり雨が降ってくれれば」
「天気ばかりはどうしようもない。万一のために、水路のほうも見直しておきますよ」
「助かります。御家老様には頭が上がりませぬ」
その後も自身の暮らしぶりや、周囲の様子などの情報を収集し、男に礼を告げて畦道から出てきたところで。
裾を戻すのもそこそこに、左近は思わず足を止めた。
「おーい、島殿ー」
それは、ここ佐和山にいるはずのない人物。
のんびりと手を振りながらこちらに歩いてくる、長身の男。
豊臣が関東を下し天下を統一してからというもの、用があろうとなかろうと気ままにこちらに顔を出す、雲のような男。
彼は徳川に仕える人間だ。
同盟を結んでいるとはいえ、味方と断言するほどの信頼はない。
「しーまーどーのー」
愛用の大太刀は、今は持っていないようだった。
真っ先に得物の有無を確認してしまうのは武士の性だ。
まあ彼の場合、無手でも人を死に至らしめることが可能なのでなんの安心材料にもならないのだが。
「……え、島殿だよね?人違いじゃないでしょ?」
反応を返さないこちらに、人懐っこい垂れ目を戸惑いがちに曇らせて、男ははたと歩みを止めた。
目が悪いわけでもないだろうに、振っていた手も上げたままで固まり、顔を顰めて凝視してくる。
いつもいつも振り回されるのはこちらなので顔を見るとつい構えてしまうが、珍しい表情を見ることができて口元が緩んだ。
「何しに来たんです、柳生さん」
「うわ、やっぱり島殿じゃない。意地悪なんだから…。しかも第一声が何しに来たって」
脱力する男、柳生宗矩に歩み寄り、左近はそのまま追い抜いて城下へと足を進める。
宗矩は「つれないなァ」などとぼやきつつ隣に並んだ。
相変わらずの長身だ。頭ひとつは違う。
「若殿へのお稽古はいいんですか?」
「んー、こっそり休んだから大丈夫」
「こっそりって……断らずに暇を?」
「そういうこと」
サボりじゃねえか。
徳川家康嫡男の徳川秀忠相手に無断で休暇をとるなんて……命知らずというか、本当に枠に収まらない御仁だ。
呆れ気味に隣の長身に横目を投げると、相手もこちらを見下ろしていて。
その細い目は、意味深な色を含んでいる。
「なんの為か、わかるかな?」
なんの為…?
そりゃあ…
「気まぐれじゃないんですか?」
「拙者をなんだと思ってるの…。さすがにそこまで適当じゃないよォ」
いや日頃の行いから鑑みて、十分適当な性格であると判断できると思う。
しかし、この男の職務放棄に理由があるとすれば…
左近は顎に手をやり、遠くを見遣るように顔を上げる。
「……琵琶湖を見たくなった、とか」
「え…?琵琶湖…?」
引かれてしまった。
よりにもよって柳生さんに。心外だ。
軽く傷心しつつも、それらしい理由は思い当たらない。
「…わかりませんよ。何かが『わかる』なんて幻想なんでしょ。それが人様の心の内なら尚更ですよ」
思考を放棄して切り返すこちらに「だからこそ、詮索するのが乙なんじゃない」と宗矩は笑った。
「誕生日だよォ、島殿の。おめでとう」
言われて、二度瞬きをする。
「……あれ、そうでしたっけ。」
言われてみれば、今日は自分の誕生日だったか。
多忙な日々に追われているおかげでとんと忘れていた。
「ありがとうございます。…まさかそれを言いにわざわざ?」
「年に一度だよ?そりゃあわざわざ来るでしょう」
あっけらかんと笑ってみせる男に呆れてしまう。
息子の剣術指南を放ったらかしにした理由が、石田三成の家臣の誕生日を祝うためなどと……どうか家康の耳に入りませんようにと祈らずにはいられない。