にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1
それは十月に入ったばかりのとある朝のことだ。着信音とともにスマホに表示された名に、伊黒は思わずスマホを二度見し、ついで眉をひそめた。
画面に映っている名は『冨岡』という名字のみ。フルネームは冨岡義勇。下の名で呼んだことは一度もない。
即座に伊黒が感じたのは、めずらしさへの驚愕。そして、なにがあった? という不安だ。
冨岡義勇は伊黒の従弟である杏寿郎の、幼馴染であり恋人でもある男だ。伊黒自身との関係はといえば、単純かつ少々複雑である。体面的には単純明快、中高の同窓生。出逢いはもっと昔だ。母に連れられ伯母の家に行くたび、必ずといっていいほど従弟の杏寿郎と一緒にいて、三人一緒に遊ばされたから、伊黒にとっても幼馴染と言えなくもない。伊黒とは同い年でもあり、友人と呼んでも差し支えないのはたしかだ。
現在、義勇は少し離れた地方都市の大学に進学し、一人で暮らしている。たまにこちらに帰ってくるときぐらいしか顔を見ることはない。
一人暮らしは伊黒も同様だが、実家からそう離れておらず、三日と空けずに母は様子を見にやってくる。杏寿郎の母と伊黒の母は姉妹で、顔立ちこそよく似ているが、印象は真逆と言っていい。毅然とした伯母と違い、母は少し心が弱かった。母は、伊黒の顔を見ずにいると、心配で眠れなくなるのだと言う。生来の性分に加えて、伊黒の生い立ちが母の気をもませるんだろう。
伊黒は大学生だし、先ごろ二十歳を迎え成人だってした。自分の生活費どころか、父や母だって養える程度には収入もある。けれども母の目には、いまだに伊黒がうつろな目をして部屋の隅で膝を抱える幼子に見えているのかもしれなかった。
育ててもらった感謝は尽きず、母が過保護になる理由も理解できるだけに、文句をつけたことはない。焦ったところでいい結果にはならないだろう。ゆっくりと子離れさせてやってくれと苦笑する父の言に、素直に従うよりない。
そんな両親との関係以上に、伊黒の胸中にだけ抱え込まれた感情としての冨岡義勇との関係は、我ながらとっちらかっている。今もってすんなりとは言い表せそうにない。
それはともあれ、義勇というのは、日ごろはメッセージアプリでしか連絡をしてこない男だ。しかもたいがいは『わかった』だの『そうか』の一言。仲間内で作ったグループの会話にしか参加しないし、他愛ない雑談なんてほぼ皆無でもある。九月にある伊黒の誕生日に、おめでとうとのメッセージが送られてくるのが関の山だ。とはいえ伊黒だって似たようなものなので、文句を言えばやぶ蛇になりかねない。
それに、ほかの友人たちだって大差はない。とくに用もなく雑談のメッセージを送りあう相手など、お互いたった一人。伊黒の従弟にして義勇の恋人、煉獄杏寿郎のみだ。伊黒と義勇の共通点など、以前はそれぐらいなものだった。
冨岡と親しい友人という枠でくくられるのに異論はないが、二人きりで外出したことなど一度もない。出かけるのはすべて仲間一同でだ。キャンプや旅行に行ったりハロウィンやらクリスマスといったイベントで盛り上がったりというのは、一昨年までは宇髄や不死川らと一緒が当然で、そこに冨岡も常にいた。桜桃みたいに杏寿郎とぴったり寄り添い合って。
伊黒が、杏寿郎や宇髄たちと一切関わりなしに義勇と二人きりで会話したのは、たった一度。高校三年の、秋だった。
スマホはまだ着信音をひびかせている。意外な名につい自失してしまっていた。そしてまた伊黒は考える。なんで電話なんだ?
義勇は激しく無口で口下手だ。メッセージ以上に、電話での連絡など義勇に関してはありえないとすら言える。いや、中学ぐらいまではまだ、電話をしてくることはたまにあった。けれどもお互い悟ったのだ。電話じゃ埒が明かないと。
声でのみ意思疎通する機器だというのに、無言で伝わると思うんじゃない。おまえの沈黙の意味を汲み取れる杏寿郎がとんでもないのだ。俺にそんな能力を求めるな。
義勇本人も電話では話をしなければ始まらないとわかっているのか、伊黒相手にかぎらず自分から電話をかけることは、杏寿郎や姉に対して以外ほぼない。それがわざわざ電話してくるなど、いったいなにがあったというのか。ふたたび最初の疑問に立ち返ったところで、伊黒はとうとうスマホを手にとった。
「もしもし。どうした、貴様が電話とは槍でも降るんじゃないのか?」
ちょっとだけ伊黒は舌打ちしそうになる。我ながらなんだか少し焦って聞こえる声だ。落ち着いてとでも言うかのように、鏑丸がチロリと頬を舐めてくる。
伊黒は鏑丸の小さな頭を指先で撫でると、電話の向こうに気取られぬよう深呼吸した。ヒヤリとした鱗の感触に少し心が落ち着く。
蛇は意思疎通が難しいペットだが、鏑丸は別格だ。六歳の誕生日からずっと一緒に暮らしている白蛇の鏑丸は、もうそろそろ老いが見えてもおかしくない。それでもまだまだ元気で、こうして伊黒の感情の機微を読み取り、慰めたり心配してくれたりもする。
鏑丸との出逢いも、杏寿郎がきっかけだ。
「……伊黒、頼みがある」
スマホから聞こえてきた義勇の声は、どことなし固かった。電話越しの声を聞き慣れているわけではないが、いつもの義勇とはなんとなく違う気がして、伊黒はまた少し顔をしかめる。
「貴様が俺に?」
「杏寿郎には話せない。というか、おまえにしか頼めない」
義勇の声は静かだ。義勇は声も小さく、淡々と話すことが多いから、いつもどおりと言えなくもない。だがその静けさは、なぜだか伊黒を落ち着かない気分にさせた。
まだ夏の残滓が残る十月だというのに、背に寒気が這い上りゾクリと震える。杏寿郎に話せず、伊黒にしか頼めないこと。見当もつかないが、義勇のことだ。杏寿郎に関わる事柄に違いない。
「……なにがあった」
「写真がある」
「は? 写真?」
「俺のだ」
スムーズに進まぬ会話に、イラッと伊黒のこめかみに青筋が浮いた。義勇はいつもこれだ。言葉足らずだったりやけに遠回りだったりする物言いに、伊黒や短気な不死川はいつもイライラとさせられる。
「おい、もっとわかりやすく話せ。貴様の写真がなんだというんだ」
「八月あたりから、部屋の前に紙袋が置かれていることがたびたびある。なかに俺の写真が入ってる」
スマホから聞こえてくる声は、やっぱり固い。伊黒の表情も、その言葉に固く凍りついた。
思い出したくもないのに浮かんできたのは、中三のときの一幕だ。それから、昨年の四月に義勇の新居から見つかった、盗聴器。
だがあれは、義勇とは関係ないものだったはずだ。義勇のあちらでの幼馴染たちが、新たに仕掛けられたものがないかときおり探ってくれていたが、それも二ヶ月で終了した。貸し出した発見器も伊黒の手元に戻り、どこにしまい込んだかすら今では定かじゃない。
危惧はただの杞憂で、不穏な出来事は始まりさえしないまま一件落着。そう思っていた。だが、終わってはいなかったのか。ここからが始まりだとでもいうのだろうか。じわじわと侵食してくる不安に、伊黒の顔はますますしかめられていく。
落ち着けと自分に言い聞かせ、伊黒はふたたび小さく深呼吸した。
画面に映っている名は『冨岡』という名字のみ。フルネームは冨岡義勇。下の名で呼んだことは一度もない。
即座に伊黒が感じたのは、めずらしさへの驚愕。そして、なにがあった? という不安だ。
冨岡義勇は伊黒の従弟である杏寿郎の、幼馴染であり恋人でもある男だ。伊黒自身との関係はといえば、単純かつ少々複雑である。体面的には単純明快、中高の同窓生。出逢いはもっと昔だ。母に連れられ伯母の家に行くたび、必ずといっていいほど従弟の杏寿郎と一緒にいて、三人一緒に遊ばされたから、伊黒にとっても幼馴染と言えなくもない。伊黒とは同い年でもあり、友人と呼んでも差し支えないのはたしかだ。
現在、義勇は少し離れた地方都市の大学に進学し、一人で暮らしている。たまにこちらに帰ってくるときぐらいしか顔を見ることはない。
一人暮らしは伊黒も同様だが、実家からそう離れておらず、三日と空けずに母は様子を見にやってくる。杏寿郎の母と伊黒の母は姉妹で、顔立ちこそよく似ているが、印象は真逆と言っていい。毅然とした伯母と違い、母は少し心が弱かった。母は、伊黒の顔を見ずにいると、心配で眠れなくなるのだと言う。生来の性分に加えて、伊黒の生い立ちが母の気をもませるんだろう。
伊黒は大学生だし、先ごろ二十歳を迎え成人だってした。自分の生活費どころか、父や母だって養える程度には収入もある。けれども母の目には、いまだに伊黒がうつろな目をして部屋の隅で膝を抱える幼子に見えているのかもしれなかった。
育ててもらった感謝は尽きず、母が過保護になる理由も理解できるだけに、文句をつけたことはない。焦ったところでいい結果にはならないだろう。ゆっくりと子離れさせてやってくれと苦笑する父の言に、素直に従うよりない。
そんな両親との関係以上に、伊黒の胸中にだけ抱え込まれた感情としての冨岡義勇との関係は、我ながらとっちらかっている。今もってすんなりとは言い表せそうにない。
それはともあれ、義勇というのは、日ごろはメッセージアプリでしか連絡をしてこない男だ。しかもたいがいは『わかった』だの『そうか』の一言。仲間内で作ったグループの会話にしか参加しないし、他愛ない雑談なんてほぼ皆無でもある。九月にある伊黒の誕生日に、おめでとうとのメッセージが送られてくるのが関の山だ。とはいえ伊黒だって似たようなものなので、文句を言えばやぶ蛇になりかねない。
それに、ほかの友人たちだって大差はない。とくに用もなく雑談のメッセージを送りあう相手など、お互いたった一人。伊黒の従弟にして義勇の恋人、煉獄杏寿郎のみだ。伊黒と義勇の共通点など、以前はそれぐらいなものだった。
冨岡と親しい友人という枠でくくられるのに異論はないが、二人きりで外出したことなど一度もない。出かけるのはすべて仲間一同でだ。キャンプや旅行に行ったりハロウィンやらクリスマスといったイベントで盛り上がったりというのは、一昨年までは宇髄や不死川らと一緒が当然で、そこに冨岡も常にいた。桜桃みたいに杏寿郎とぴったり寄り添い合って。
伊黒が、杏寿郎や宇髄たちと一切関わりなしに義勇と二人きりで会話したのは、たった一度。高校三年の、秋だった。
スマホはまだ着信音をひびかせている。意外な名につい自失してしまっていた。そしてまた伊黒は考える。なんで電話なんだ?
義勇は激しく無口で口下手だ。メッセージ以上に、電話での連絡など義勇に関してはありえないとすら言える。いや、中学ぐらいまではまだ、電話をしてくることはたまにあった。けれどもお互い悟ったのだ。電話じゃ埒が明かないと。
声でのみ意思疎通する機器だというのに、無言で伝わると思うんじゃない。おまえの沈黙の意味を汲み取れる杏寿郎がとんでもないのだ。俺にそんな能力を求めるな。
義勇本人も電話では話をしなければ始まらないとわかっているのか、伊黒相手にかぎらず自分から電話をかけることは、杏寿郎や姉に対して以外ほぼない。それがわざわざ電話してくるなど、いったいなにがあったというのか。ふたたび最初の疑問に立ち返ったところで、伊黒はとうとうスマホを手にとった。
「もしもし。どうした、貴様が電話とは槍でも降るんじゃないのか?」
ちょっとだけ伊黒は舌打ちしそうになる。我ながらなんだか少し焦って聞こえる声だ。落ち着いてとでも言うかのように、鏑丸がチロリと頬を舐めてくる。
伊黒は鏑丸の小さな頭を指先で撫でると、電話の向こうに気取られぬよう深呼吸した。ヒヤリとした鱗の感触に少し心が落ち着く。
蛇は意思疎通が難しいペットだが、鏑丸は別格だ。六歳の誕生日からずっと一緒に暮らしている白蛇の鏑丸は、もうそろそろ老いが見えてもおかしくない。それでもまだまだ元気で、こうして伊黒の感情の機微を読み取り、慰めたり心配してくれたりもする。
鏑丸との出逢いも、杏寿郎がきっかけだ。
「……伊黒、頼みがある」
スマホから聞こえてきた義勇の声は、どことなし固かった。電話越しの声を聞き慣れているわけではないが、いつもの義勇とはなんとなく違う気がして、伊黒はまた少し顔をしかめる。
「貴様が俺に?」
「杏寿郎には話せない。というか、おまえにしか頼めない」
義勇の声は静かだ。義勇は声も小さく、淡々と話すことが多いから、いつもどおりと言えなくもない。だがその静けさは、なぜだか伊黒を落ち着かない気分にさせた。
まだ夏の残滓が残る十月だというのに、背に寒気が這い上りゾクリと震える。杏寿郎に話せず、伊黒にしか頼めないこと。見当もつかないが、義勇のことだ。杏寿郎に関わる事柄に違いない。
「……なにがあった」
「写真がある」
「は? 写真?」
「俺のだ」
スムーズに進まぬ会話に、イラッと伊黒のこめかみに青筋が浮いた。義勇はいつもこれだ。言葉足らずだったりやけに遠回りだったりする物言いに、伊黒や短気な不死川はいつもイライラとさせられる。
「おい、もっとわかりやすく話せ。貴様の写真がなんだというんだ」
「八月あたりから、部屋の前に紙袋が置かれていることがたびたびある。なかに俺の写真が入ってる」
スマホから聞こえてくる声は、やっぱり固い。伊黒の表情も、その言葉に固く凍りついた。
思い出したくもないのに浮かんできたのは、中三のときの一幕だ。それから、昨年の四月に義勇の新居から見つかった、盗聴器。
だがあれは、義勇とは関係ないものだったはずだ。義勇のあちらでの幼馴染たちが、新たに仕掛けられたものがないかときおり探ってくれていたが、それも二ヶ月で終了した。貸し出した発見器も伊黒の手元に戻り、どこにしまい込んだかすら今では定かじゃない。
危惧はただの杞憂で、不穏な出来事は始まりさえしないまま一件落着。そう思っていた。だが、終わってはいなかったのか。ここからが始まりだとでもいうのだろうか。じわじわと侵食してくる不安に、伊黒の顔はますますしかめられていく。
落ち着けと自分に言い聞かせ、伊黒はふたたび小さく深呼吸した。
作品名:にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1 作家名:オバ/OBA