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にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1

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 楽しいと笑えば殴られる。泣けば蹴られる。骨身にしみついた痛みは、幼い伊黒から表情を奪い、感情を持つことを許さなかった。だからなにも答えられず、ただ小さく震えながら、看護師と入れ替わりに部屋へと入ってきたその人を見つめた。

 幼子を腕に抱いて現れた男は、金と赤の髪や瞳をしていた。キラキラしていたのはこの髪だったのか。ぼんやり思いながら、無言で伊黒は男を見上げた。
 こういうとき、なんと言うのが正解なんだろう。怒られないためには、なにを言えばいいんだろう。ごめんなさい。それしか思い浮かばず、口を開きかけた伊黒は、男の腕のなかでジタバタと手足をうごめかせたそれに言葉を飲み込んだ。
「コラ、杏寿郎っ。おとなしくしてなさい」
「らって、いちゃいいちゃいしてましゅ!」
「は? いちゃいいちゃい? って、なん……あ、あぁ、包帯か。うん、まだ痛そうだな。でも騒いだら駄目だろう? いい子にしなさい」
 困り顔で言うその人と、腕のなかでもがくその子は、よく似ていた。金と赤の髪も、大きな目やくっきりとした眉も、二人の血が繋がっているのを示している。
「あ、コラ!」
 とうとう腕のなかから脱出を果たした男の子は、ベッドに身を乗り上げ、ふくふくとした手を伊黒へと伸ばしてくる。
「たい? いちゃいのとんでけしゅる? きょうじゅろがちたげましゅ!」
 ふっくらとまろい頬。大きくてキラキラした瞳。伊黒の答えを待たずに頭に触れてきた手は、包帯に触れたら痛いと思ったからだろうか。
「杏寿郎、降りなさいっ」
「ははうえは、ちてくれましゅ! きょうじゅろも、にいちゃにちましゅ!」
 抱き上げられて離れていく小さな手を、伊黒の目が思わず追いかけた。どうしてかは、よくわからない。もっと。あの小さな手に撫でられたい。もっと笑うのが見たい。もっと。なぜだかそんな言葉が浮かんで男の顔を見上げた伊黒は、すぐに青ざめうつむいた。
 なにかをねだるなど、してはならない。それがなんであれ、きっと痛みになって返ってくる。知らず震えだし、ギュッと布団を掴んだ手や怯えうつむけた顔から、血の気が失せた。
 やだだめと訴える杏寿郎という子の声だけが聞こえる。男の顔に視線を向けることはできなかった。きっと怒りに歪んでいるに違いない。そう思った。
 医師や看護師が怒り出さないことは、もう知っている。警察だとか児童福祉団体だとかを名乗る人たちも同様だ。けれども、この人は違う。
 人はそれぞれ自分の役目にふさわしい顔をする。自分はかわいそうな子供であり、看護師たちにとっては、やさしくしてやらねばならない存在なのだ。伊黒がママと呼んでいたあの女と違い、伊黒に怒りをぶつけることはない。彼らはそういう役をふられている。
 男の役割がなんなのかは知らないが、きっとあのアパートの一室から伊黒を連れ出したことも、男の役目のひとつなのだろう。けれど、それ以上はわからない。怒りだし殴られる可能性はあった。
 体は衰弱しきって平均値をはるかに下回っているが、伊黒の知能は水準以上だ。少なくとも、伊黒の治療にあたった医師はそう判じた。伊黒と同じような環境にいた子供は、人の顔色を常に窺うようになるという。その点は伊黒も同じだったが、伊黒は、大人の事情をも理解した。
 それが幸いだったのか否かは、伊黒自身にもわからない。ただ、嵐のような暴力に耐える時間はきっと短いと、それだけ考えていた。

「すまんが好きにさせてやってくれ。言葉は遅いくせに、コイツは誰に似たのか押しが強くてなぁ。言い出したらきかんのだ」

 だから、そんな言葉が苦笑とともに告げられるなど、思いもしていなかった。
 思わず上げた伊黒の顔を見つめる男の瞳は、やさしい色をしていた。恐る恐る小さくうなずけば、パァッと笑んだ杏寿郎が、いそいそと頭を撫でてくる。
 笑顔から一転、真剣な顔でいかにも一所懸命に「いちゃいのいちゃいのとんでけ!」と何度も繰り返す杏寿郎に、なぜだか喉が急に苦しくなって、目の奥が熱くなる。
「にいちゃ、もういちゃくない? げんきなったら、きょうじゅろとあしょぶ? きょうじゅろはね、みっちゅ! おにごっこもかくれんぼもできりゅよ!」
 満足したのか手を離し、ニコニコと笑いかけてくる杏寿郎は、ちっちゃなお日様みたいだった。
 たいがいは閉め切られているカーテンの隙間から、こっそりと仰ぎ見た青空。そこに輝く、あたたかくて眩しいお日様。すぐに分厚いカーテンで隠されていたお日様が、いま自分を照らしてくれている。もう隠されることなく。
 スンッと知らず鼻を鳴らした伊黒の頭に、杏寿郎よりもっと大きな手が、ポンと乗せられた。

「強い子だな。よく、がんばった。君は、本当に強い子だ。もっと元気になったら、杏寿郎と遊んでやってくれるか?」
「にいちゃ、ちゅよい? きょうじゅろも! きょうじゅろもちゅよくなりましゅ!」
「わかったわかった。うん、杏寿郎もお兄ちゃんみたいに強くなれ」

 杏寿郎を抱き上げて笑いながら言う男を見上げた伊黒の目に、涙が光る。笑う二人の顔は、気づけばぼやけていた。知らず視界を奪い頬を伝った涙は、やけに暖かかった。
 泣いたらもっと怒られる。そんな怯えすら浮かぶことさえなく、伊黒は初めて、素直に泣きじゃくった。どんどんと濡れていく包帯も相まって息苦しいし、鼻の奥もツンと痛い。けれども涙はとめられそうになかった。とめなくてもいいのだと、思った。

「っ! ちちうえ、にいちゃいじめちゃらめ!」
「はぁ!? ちっ、ちがっ、いじめとらんぞ!」
「らって、にいちゃ、えんえんちてましゅ!」
「いや、それは……お、俺のせいか?」
「あにゃちゃ、めっれしゅよ!」
「おい、それ、瑠火の真似か? というか、いつ見た!?」

 男の口を人差し指でちょんと押さえて頬をふくらませる杏寿郎と、ぱちくりとまばたきして顔を赤くした男に、伊黒は思わず泣きながら笑った。
 アハハと声を上げ、涙をポロポロと落としながら。
 うれしくて泣くのも、怯えず笑うのも。笑い返して、もらうのも。強い。そんな言葉をくれたのも。きれいだとか温かいだとか、素直にそう思えるすべてを初めて伊黒にくれたのは、杏寿郎とその父――槇寿郎だった。人として生きる。誰しもに与えられているはずのその権利すら、伊黒が与えられたのは……与えてもらったと思えたのは、彼らの言葉と笑みによってだった。

 その後、日を置かずにたびたび病室に顔を見せる人たちは、少しずつ増えていった。
 最初は、杏寿郎の母の瑠火が。それからしばらくして、その妹だというよく似た女性も、病室に来た。やがてそこに彼女の夫という男性も加わり、伊黒の病室はにぎやかになっていく。次第に妹夫妻だけでくることが増えていったが、それでも三度に一度は杏寿郎が一緒だ。
 槇寿郎や瑠火と違って、妹夫婦――とくに、瑠火の妹には、伊黒は少しよそよそしくなってしまう。かわいそうに。そんな言葉が瑠火よりずっと気の弱そうな面差しに浮かぶから、そんな目で見ないでくれと視線をそらせそうになる。けれど杏寿郎が一緒なら、それもない。