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にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1

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 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 伊黒があげた絶叫が、女の激昂を深めたんだろう。うるさい。怒鳴り声は遠く聞こえ、投げ飛ばされて壁に激突した衝撃に息が詰まった。
 ガンガンとドアを叩く音。開けろ、なにがあったと怒鳴る、聞き慣れぬ声。女に枕で顔を押さえつけられたのを、覚えている。全身が痛くて、ただ苦しくて、もがいた手がなにかをガリッとひっかいたのも。いっそう息ができなくなっただけだったけれど、それでももがくのをやめられなかった。
 ガラスが割れる音がして、なにをしていると怒る声が聞こえたら、不意に息が楽になった。
 薄く開いた伊黒の目が捉えたものは、光だった。
 いつでも閉めっぱなしのカーテンが開いている。救急車! そんな大声とともに、体がふわりと浮き上がった。
 朧な視界に広がる眩しい日差しと、それ以上にまばゆい金と赤のきらめき。騒然とした多くの知らぬ声を、かすれていく意識の片隅で聞きながら、あのとき自分が思い浮かべた言葉はなんだったろう。当時の自分の記憶は、今となってはイメージばかりだ。自身の心境は思い出せない。
 女の罵倒とテレビが垂れ流す言葉しか、伊黒は聞いたことがなかった。保護され、切り裂かれた口の傷がふさがっても、しばらくはろくに口もきけずにいたのは、言葉自体をよく知らなかったからだ。だから当時は、もしかしたらなにも考えていなかったかもしれない。
 言語化されることのない感情は、明確な輪郭を持たずに混沌としている。助かったとの安堵すら、あのときの自分は感じていなかったに違いない。
 温かい。頼もしい腕に抱えられて浮かんだのは、もしかしたら、そんな一言だけかもしれなかった。

 前後の記憶は曖昧だ。自分が被虐待児と呼ばれる存在であることも、昼夜を問わずに聞こえる幼子の泣き声に近隣住人が気をもんでいたことも、当時の伊黒にはあずかり知らぬことである。昼夜を問わず突然襲いかかってくる嵐のごとき暴力や、キリキリと痛む空腹は、あのころの伊黒にとっては当然の日常で、それ以外の世界など存在することすら知らなかった。
 ときどき「百数えたら、ママ早く、一緒におやつ食べようって言いな」と頬をつねって女が命令するのにうなずき、玄関が開き知らぬ声が聞こえてくるのに怯えながら、部屋の隅で必死に数を数えた。そうして、言われたとおり、オウム返しに声を張り上げる。その意味を理解したのも、ずいぶん経ってからだ。ずる賢い女だ。自分のなかにあの女の血が流れていると思うだけで、伊黒はいまだに、全身から血を抜き去りたい衝動に駆られる。
 そんなことをすれば負けだと、唇を噛みしめ胸を張り、衝動を押し殺し耐えることも今では可能だ。非力な腕に反してとんでもなく負けん気が強いと笑われるのは、伊黒にとっては勲章と言っていい。
 けれど当時は、負けん気など持ちようもなかった。温もりややさしさなど、存在することすら知らなかった。だから、白い病室で目覚めたあとに自分に向けられた、いろんな人のやさしい笑顔や言葉も、どこか他人事のように感じていたんだろう。
 もう大丈夫だからね。安心していいよ。誰もが伊黒にそう言った。見知らぬ大人は、誰もみな口をそろえて伊黒にそう言い、かわいそうにと笑顔をゆがめる。
 かわいそう、なのか。自分は、かわいそうと憐れまれる存在だったのか。
 ぼんやりとした思考はさしたる感慨を持たず、ただ流れていく。自分の年齢や名前すら、当時の伊黒は知らなかった。
 今でも、当時の名前は他人の物としか思えない。いま呼ばれたところで、自分のことだなんて気づきもしないだろう。当時だって同じことだ。女が自分を呼ぶときはいつも、クズだのバカだのだったから、名前があるとすら知らずにいた。
 自分の名は、伊黒小芭内だけでいい。やさしい人たちが与えてくれた、この名だけでいい。

 ようやく起き上がれるようになったのは、秋だった。保護され病院に収容されたのは、春だったらしいから、二つの季節をまるまる病室で過ごしたことになる。
 顔の傷や骨折よりも、衰弱しきった体が回復するまでに時間を要したのは、間違いない。さまざまな事情が絡み合った結果だろうが、退院までには一年近くを要したほどだ。大人数で暮らす児童養護施設では、伊黒をあずかるのは難しかったのも理由の一つだろう。
 流動食以外を食べられるようになっても、伊黒の食は細かった。空腹でいるのが当たり前で、体が食事を受け付けないのだ。
 保護されたとき伊黒は四歳だったそうだが、体重も身長も、三歳児の平均をはるかに下回っていたらしい。少しずつ自分で食事を取れるようになり、介助されることが減ってきたときには、伊黒はもう五歳になっていた。

 槇寿郎が、小さな杏寿郎を抱いて見舞いに来たのは、そのころだ。

 助けてくれた人がお見舞いに来てくれたよ。食事やトイレを手伝ってくれていた若い看護師が、警察だとか福祉施設以外の面会を告げたのは、初めてだった。伊黒の体が回復し精神が安定するまで、病院側は面会にも慎重を期したとみえる。事情聴取もすぐにドクターストップがかけられていた。
 そういう日には、担当の看護師や医師が、いつも以上にやさしい。元気になるまでいていいんだからね。いつでも彼らはそう言って笑った。金にならぬ福祉事業と変わりのない患者にも、心を尽くせる病院であったのは間違いない。
 たぶん、生まれ以外、自分は幸運に恵まれているんだろう。今でもときどき、伊黒は思う。
 入院して以来、多くの人が話しかけてくれるから、だいぶ言葉も覚えた。それでも感情を口に出すことはできず、そもそも感情らしきもの自体が薄い。そんな日々ではあったけれど『助けてくれた人』との言葉に、そわりと胸の奥がさざめいたのは覚えている。

 ジャキンという切断音と、瞬間カッと燃えた自分の顔。衝撃は痛みよりむしろ熱さに近かったように思う。切り裂かれた場所から火が吹き、一気に全身が燃え上がったかのような衝撃のあとで、耐え難い痛みは襲ってきた。そんな気がする。
 絶叫を上げたあの日の記憶は曖昧だ。けれど、金と赤のキラキラとした輝きだけは、はっきりと覚えていた。
 生まれて初めて見た、きれいなもの。強く輝く金色。抱き上げられて感じた温もり。痛みやひもじさしか与えられない場所から、連れ出してくれた人。胸の奥がさわさわと揺れる。
 看護師はニコニコと笑っている。うれしいでしょう? と笑んだ目が伝えていた。けれど、伊黒にはわからない。喜びとはなんだ。わからない。うれしいって、どういうことなんだろう。どんな気持ちが、うれしさなんだろう。言葉の意味は覚えても、そこに自身の感情を当てはめるのはむずかしい。どう答えれば正解なのかわからない。伊黒が戸惑い落ち着かぬ様子を見せたのに、看護師はいつもと同じくかわいそうにと言いたげな顔をした。
 喜んでいいのか。助けてくれた人に逢えるのは喜ぶべきことなのか。うれしいなんて、思っていいのか。『うれしい』のは『幸せ』なことらしい。幸せって、なんだ。知らない。知らない。わからない。